兎(と)に角(かく)其日の授業だけは無事に済した上で、と丑松は湧上(わきあが)るやうな胸の思を制(おさ)へ乍(なが)ら、三時間目の習字を教へた。手習ひする生徒の背後(うしろ)へ廻つて、手に手を持添へて、漢字の書方なぞを注意してやつた時は、奈何(どんな)に其筆先がぶる/\と震へたらう。周囲(まはり)の生徒はいづれも伸(の)しかかつて眺(なが)めて、墨だらけな口を開いて笑ふのであつた。
小使の振鳴す大鈴の音が三時間目の終を知らせる頃には、最早(もう)郡視学も、町会議員も帰つて了つた。師範校の生徒は猶(なほ)残つて午後の授業をも観たいといふ。昼飯(ひる)の後、生徒の監督を他の教師に任せて置いて、丑松は後仕末をする為に職員室に留つた。其となく返すものは返す、調べるものは調べる、後になつて非難を受けまいと思へば思ふほど、心の惶(あわたゞ)しさは一通りで無い。職員室の片隅には、手の明いた教員が集つて、寄ると触(さは)ると法福寺の門前にあつた出来事の噂(うはさ)。蓮太郎の身を捨てた動機に就いても、種々(さま/″\)な臆測が言ひはやされる。あるものは過度の名誉心が原因(もと)だらうと言ひ、あるものは生活(くらし)に究(つま)つた揚句だらうと言ひ、あるものは又、精神に異状を来して居たのだらうといふ。まあ、十人が十色のことを言つて、誹(けな)したり謗(くさ)したりする、稀(たま)に蓮太郎の精神を褒(ほ)めるものが有つても、寧ろ其を肺病の故(せゐ)にして了(しま)つた。聞くともなしに丑松は人々の噂を聞いて、到底誤解されずに済(す)む世の中では無いといふことを思ひ知つた。『黙つて狼のやうに男らしく死ね』――あの先輩の言葉を思出した時は、悲しかつた。
午後の課目は地理と国語とであつた。五時間目には、国語の教科書の外に、予(かね)て生徒から預つて置いた習字の清書、作文の帳面、そんなものを一緒に持つて教室へ入つたので、其と見た好奇(ものずき)な少年はもう眼を円くする。『ホウ、作文が刪正(なほ)つて来た。』とある生徒が言つた。『図画も。』と又。丑松はそれを自分の机の上に載せて、例のやうに教科書の方へ取掛つたが、軈(やが)て平素(いつも)の半分ばかりも講釈したところで本を閉ぢて、其日はもう其で止めにする、それから少許(すこし)話すことが有る、と言つて生徒一同の顔を眺め渡すと、『先生、御話ですか。』と気の早いものは直に其を聞くのであつた。
『御話、御話――』
と請求する声は教室の隅から隅までも拡(ひろが)つた。
丑松の眼は輝いて来た。今は我知らず落ちる涙を止(とゞ)めかねたのである。其時、習字やら、図画やら、作文の帳面やらを生徒の手に渡した。中には、朱で点を付けたのもあり、優とか佳とかしたのもあつた。または、全く目を通さないのもあつた。丑松は先づ其詑(そのわび)から始めて、刪正(なほ)して遣(や)りたいは遣りたいが、最早(もう)其を為(す)る暇が無いといふことを話し、斯うして一緒に稽古を為るのも実は今日限りであるといふことを話し、自分は今別離(わかれ)を告げる為に是処(こゝ)に立つて居るといふことを話した。
『皆さんも御存じでせう。』と丑松は噛んで含めるやうに言つた。『是(この)山国に住む人々を分けて見ると、大凡(おおよそ)五通りに別れて居ます。それは旧士族と、町の商人と、お百姓と、僧侶(ばうさん)と、それからまだ外に穢多といふ階級があります。御存じでせう、其穢多は今でも町はづれに一団(ひとかたまり)に成つて居て、皆さんの履(は)く麻裏(あさうら)を造(つく)つたり、靴や太鼓や三味線等を製(こしら)へたり、あるものは又お百姓して生活(くらし)を立てゝ居るといふことを。御存じでせう、其穢多は御出入と言つて、稲を一束づゝ持つて、皆さんの父親(おとつ)さんや祖父(おぢい)さんのところへ一年に一度は必ず御機嫌伺ひに行きましたことを。御存じでせう、其穢多が皆さんの御家へ行きますと、土間のところへ手を突いて、特別の茶椀で食物(くひもの)なぞを頂戴して、決して敷居から内部(なか)へは一歩(ひとあし)も入られなかつたことを。皆さんの方から又、用事でもあつて穢多の部落へ御出(おいで)になりますと、煙草(たばこ)は燐寸(マッチ)で喫(の)んで頂いて、御茶は有(あり)ましても決して差上げないのが昔からの習慣です。まあ、穢多といふものは、其程卑賤(いや)しい階級としてあるのです。もし其穢多が斯(こ)の教室へやつて来て、皆さんに国語や地理を教へるとしましたら、其時皆さんは奈何思ひますか、皆さんの父親(おとつ)さんや母親(おつか)さんは奈何(どう)思ひませうか――実は、私は其卑賤(いや)しい穢多の一人です。』
手も足も烈しく慄(ふる)へて来た。丑松は立つて居られないといふ風で、そこに在る机に身を支へた。さあ、生徒は驚いたの驚かないのぢやない。いづれも顔を揚げたり、口を開いたりして、熱心な眸(ひとみ)を注いだのである。
『皆さんも最早(もう)十五六――万更(まんざら)世情(ものごゝろ)を知らないといふ年齢(とし)でも有ません。何卒(どうぞ)私の言ふことを克(よ)く記憶(おぼ)えて置いて下さい。』と丑松は名残惜(なごりを)しさうに言葉を継(つ)いだ。
『これから将来(さき)、五年十年と経つて、稀(たま)に皆さんが小学校時代のことを考へて御覧なさる時に――あゝ、あの高等四年の教室で、瀬川といふ教員に習つたことが有つたツけ――あの穢多の教員が素性を告白(うちあ)けて、別離(わかれ)を述べて行く時に、正月になれば自分等と同じやうに屠蘇(とそ)を祝ひ、天長節が来れば同じやうに君が代を歌つて、蔭ながら自分等の幸福(しあはせ)を、出世を祈ると言つたツけ――斯(か)う思出して頂きたいのです。私が今斯(か)ういふことを告白(うちあ)けましたら、定めし皆さんは穢(けがらは)しいといふ感想(かんじ)を起すでせう。あゝ、仮令(たとひ)私は卑賤(いや)しい生れでも、すくなくも皆さんが立派な思想(かんがへ)を御持ちなさるやうに、毎日其を心掛けて教へて上げた積りです。せめて其の骨折に免じて、今日迄(こんにちまで)のことは何卒(どうか)許して下さい。』
斯(か)う言つて、生徒の机のところへ手を突いて、詑入(わびい)るやうに頭を下げた。
『皆さんが御家へ御帰りに成りましたら、何卒(どうぞ)父親(おとつ)さんや母親(おつか)さんに私のことを話して下さい――今迄隠蔽(かく)して居たのは全く済(す)まなかつた、と言つて、皆さんの前に手を突いて、斯うして告白(うちあ)けたことを話して丁さい――全く、私は穢多です、調里です、不浄な人間です。』
と斯う添加(つけた)して言つた。
丑松はまだ詑び足りないと思つたか、二歩三歩(ふたあしみあし)退却(あとずさり)して、『許して下さい』を言ひ乍ら板敷の上へ跪(ひざまづ)いた。何事かと、後列の方の生徒は急に立上つた。一人立ち、二人立ちして、伸(の)しかゝつて眺めるうちに、斯の教室に居る生徒は総立に成つて、あるものは腰掛の上に登る、あるものは席を離れる、あるものは廊下へ出て声を揚げ乍ら飛んで歩いた。其時大鈴の音が響き渡つた。教室々々の戸が開いた。他の組の生徒も教師も一緒になつて、波濤(なみ)のやうに是方(こちら)へ押溢(おしあふ)れて来た。
* * *
十二月に入つてから銀之助は最早(もう)客分であつた。其日は午後の一時半頃から、自分の用事で学校へ出て来て居て、丁度職員室で話しこんで居る最中、不図丑松のことを耳に入れた。思はず銀之助はそこを飛出した。玄関を横過(よこぎ)つて、長い廊下を通ると、肩掛に紫頭巾(むらさきづきん)、帰り仕度の女生徒、あそこにも、こゝにも、丑松の噂を始めて、家路に向ふことを忘れたかのやう。体操場には男の生徒が集つて、話は矢張丑松の噂で持切つて居た。左右に馳違(はせちが)ふ少年の群を分けて、高等四年の教室へ近いて見ると、廊下のところに校長、教師五六人、中に文平も、其他高等科の生徒が丑松を囲繞(とりま)いて、参観に来た師範校の生徒まで呆(あき)れ顔(がほ)に眺め佇立(たゝず)んで居たのである。見れば丑松はすこし逆上(とりのぼ)せた人のやうに、同僚の前に跪(ひざまづ)いて、恥の額を板敷の塵埃(ほこり)の中に埋めて居た。深い哀憐(あはれみ)の心は、斯(こ)の可傷(いたま)しい光景(ありさま)を見ると同時に、銀之助の胸を衝(つ)いて湧上(わきあが)つた。歩み寄つて、助け起し乍ら、着物の塵埃(ほこり)を払つて遣ると、丑松は最早半分夢中で、『土屋君、許して呉れ給へ』をかへすがへす言ふ。告白の涙は奈何(どんな)に丑松の頬を伝つて流れたらう。
『解つた、解つた、君の心地(こゝろもち)は好く解つた。』と銀之助は言つた。『むむ――進退伺も用意して来たね。兎(と)に角(かく)、後の事は僕に任せるとして、君は直に是(これ)から帰り給へ――ね、君は左様(さう)し給へ。』