火を入れるところまで見届けて、焼場から帰つた後、丑松は弁護士や銀之助と火鉢を取囲(とりま)いて、扇屋の奥座敷で話した。無情(つれな)い運命も、今は丑松の方へ向いて、微(すこ)し笑つて見せるやうに成つた。あの飯山病院から追はれ、鷹匠(たかしやう)町の宿からも追はれた大日向が――実は、放逐の恥辱(はづかしめ)が非常な奮発心を起させた動機と成つて――亜米利加(アメリカ)の『テキサス』で農業に従事しようといふ新しい計画は、意外にも市村弁護士の口を通して、丑松の耳に希望(のぞみ)を囁(さゝや)いた。教育のある、確実(たしか)な青年を一人世話して呉れ、とは予(かね)て弁護士が大日向から依頼されて居たことで、丁度丑松とは素性も同じ、定めし是話をしたら先方(さき)も悦(よろこ)ばう。望みとあらば周旋してやるが奈何(どう)か。『テキサス』あたりへ出掛ける気は無いか。心懸け次第で随分勉強することも出来よう。是話には銀之助も熱心に賛成した。『見給へ――捨てる神あれば、助ける神ありさ。』と銀之助は其を言ふのであつた。
『明後日の朝、大日向が我輩の宿へ来る約束に成つて居る。むゝ、丁度好い。兎(と)に角(かく)逢(あ)つて見ることにしたまへ。』
斯ういふ弁護士の言葉は、枯れ萎れた丑松の心を励(はげま)して、様子によつては頼んで見よう、働いて見ようといふ気を起させたのである。
そればかりでは無い。銀之助から聞いたお志保の物語――まあ、あの可憐な決心と涙とは奈何(どんな)に深い震動を丑松の胸に伝へたらう。敬之進の病気、継母の家出、そんなこんなが一緒に成つて、一層(ひとしほ)お志保の心情を可傷(いたは)しく思はせる。あゝ、絶望し、断念し、素性まで告白して別れた丑松の為に、ひそかに熱い涙をそゝぐ人が有らうとは。可羞(はづか)しい、とはいへ心の底から絞出(しぼりだ)した真実(まこと)の懴悔を聞いて、一生を卑賤(いや)しい穢多の子に寄せる人が有らうとは。
『どうして、君、彼(あ)の女はなか/\しつかりものだぜ。』
と銀之助は添加(つけた)して言つた。
其翌日、銀之助は友達の為に、学校へも行き、蓮華寺へも行き、お志保の許(ところ)へも行つた。蓮華寺にある丑松の荷物を取纏めて、直に要(い)るものは要るもの、寺へ預けるものは預けるもので見別(みわけ)をつけたのも、すべて銀之助の骨折であつた。銀之助はまた、お志保のことを未亡人にも話し、弁護士にも話した。女は女に同情(おもひやり)の深いもの。殊にお志保の不幸な境遇は未亡人の心を動したのであつた。行く/\は東京へ引取つて一緒に暮したい。丑松の身が極(きま)つた暁には自分の妹にして結婚(めあは)せるやうにしたい。斯(か)う言出した。兎(と)に角(かく)、後の事は弁護士も力を添へる、とある。といふ訳で、万事は弁護士と銀之助とに頼んで置いて、丑松は惶急(あわたゞ)しく飯山を発(た)つことに決めた。