それを聞いて、雄一は菊池本人に尋ねてみた。菊池は彼の顔をじろりと見返した後、黒板のほうに目をそらし、ややぶっきらぼうな口調で答えた。「疑いは晴れた。あの話は、もうあれで終わりや」
「それはよかったやないか」雄一は明るくいった。「どうやって疑いを晴らしたんや?」
「別に俺は何もしてない。あの日に映画館に行ってたことが証明されただけや」
「どうやって証明されてん」
「そんなことは」菊池は腕組みをし、大きくため息をついた。「そんなことはどうだってええやろ。それとも俺が捕まったほうがよかったのか」
「なにいうてるねん。そんなあほなこと、あるわけないやないか」
「そしたら、もう今度のことには触れんといてくれ。思い出すだけでも、むかむかしてくる」菊池は黒板のほうを向いたままで、雄一を見ようとはしなかった。明らかに、彼のことを恨んでいるようだった。例の達磨の持ち主をしゃべったのが誰か、薄々感づいているのだろう。
雄一はなんとか菊池の機嫌を直させる方法はないかと思った。そこでこんなことをいってみた。
「例の写真のことやけど、何か調べたいことがあるんなら付き合うで」
「何の話や」
「何の話って……ほら、桐原のおふくろさんが男と写ってる写真のことや。なんか面白そうやないか」
だがこれに対する菊池の反応は、雄一の期待を裏切るものだった。
「あれか」菊池は口元を歪めた。「あれはもうやめた」
「やめたって……」
「興味なくなった。よう考えてみたら、俺にはどうでもええことやった。昔の話やし、今では誰も覚えてないし」
「けど、おまえのほうから……」
「それに」雄一の言葉を遮って菊池はいった。「あの写真、なくした」
「なくした?」
「どこかで落としたらしい。もしかしたらこの間家の掃除をした時に、間違えて捨ててしもたのかもしれん」
「そんな……」
困るやないか、と雄一としてはいいたいところだった。だが菊池の能面のような表情を見ると、何もいえなくなった。大切な写真を紛失したことについて、申し訳ないと思っている様子は全くなかった。この程度のことでおまえに詫《わ》びる必要はない、とでもいいたげに見えた。
「別にかめへんやろ、あんな写真」そういって菊池は雄一を見た。睨んだ、と表現してもいい目つきだった。
「うん、ああ、まあええけど」仕方なく雄一は答えた。
菊池は立ち上がり、席を離れた。もうこれ以上話をしたくないという意思表示のようだった。
雄一は戸惑いながら菊池の背中を見送った。その時、別の方向からの視線を感じた。そちらに目を向けると、桐原が彼を見ていた。冷たく観察するような目に、雄一は一瞬寒気を感じた。
だがそれも長い時間ではなかった。すぐに桐原は目を伏せ、文庫本を読み始めた。彼の机の上には布製の小物入れが置いてあった。パッチワークされたもので、RKというイニシャルが入っていた。
この日の放課後、学校を出て少し歩いたところで、雄一は突然右の肩を掴まれた。振り返ると牟田俊之が憎悪のこもった目をして立っていた。牟田の後ろには仲間が二人いた。どちらも牟田と同じ表情をしていた。
「ちょっと来い」牟田は低く響く声でいった。大きな声ではなかったが、雄一の心臓を縮ませるには十分な凄みを持っていた。
狭い路地に雄一は連れ込まれた。二人の仲間が彼を挟み、牟田が正面に立った。
牟田の手が雄一の襟元を掴んできた。絞るように持ち上げられると、あまり背の高くない雄一は爪先立ちしなければならなくなった。
「こら、秋吉」牟田が巻き舌でいった。「おまえ、俺のこと売ったやろ」
雄一は必死で首を振った。怯えで顔がひきつった。
「嘘ぬかせ」牟田が目と歯を剥き、顔を近づけてきた。「おまえしかおれへんやんけ」
雄一は首を振り続けた。「何もいうてへん。ほんまや」
「嘘つくなボケ」と左の男がいった。「しばくぞ」
「正直にいえ、おら」牟田が両手を使って雄一の身体を揺すった。
雄一の背中が壁に押しつけられる。コンクリートの冷たい感触が伝わってきた。
「ほんまや。嘘と違う。おれ、何もいうてへん」
「ほんまやなあ」
「ほんまや」雄一はのけぞりながら頷いた。
牟田は睨みつけてきた。しばらくそうした後、手を離した。右側の男が、ちっと舌を鳴らした。
雄一は自分の喉《のど》を押さえ、唾を飲み込んだ。助かった、と思った。
だが次の瞬間、牟田の顔が歪んだ。あっと思う間もなかった。衝撃を受けた直後には、雄一は四つん這いになっていた。
衝撃は顔面に残っていた。それを自覚してようやく殴られたのだと気づいた。
「おまえに決まっとるやんけっ」牟田の怒声と共に、何かが雄一の口に飛び込んできた。靴の先端だということを、反対側に倒れてから知った。
口の中が切れ、血の味が広がった。十円玉を舐めたみたいやと思った直後、強烈な痛みが襲ってきた。雄一は顔を押さえ、うずくまった。
その彼の脇腹に、牟田たちの蹴りが無数に浴びせられた。