「昨日は、そういう話やなかったやないか」友彦はいった。昨夜桐原から、いい場所が見つかったから明日の朝出発しようという内容の電話が入っていたのだ。
「今朝になって、急に都合が悪なった。長い間やないから、ちょっと我慢してくれ」
「あたしはいいわよ」と奈美江はいった。「名古屋なら、昔ちょっと住んでたから土地鑑もあるし」
「その話を聞いてたから名古屋にした」桐原がいった。
ホテルの地下駐車場には、白のマークⅡが止めてあった。レンタカーだと桐原はいった。仕事に使っているライトエースを動かすと、エノモトたちが怪しむからだという。
「これ、新幹線の切符。それからビジネスホテルの地図」車に乗り込んでから、封筒と白いコピー用紙を桐原は奈美江に渡した。
「いろいろとありがとう」彼女は礼をいった。
「それからもう一つ。これを持っていったほうがええ」桐原が紙袋を出してきた。
「何これ?」紙袋の中を覗き込み、奈美江は苦笑した。
友彦も横から覗き込んだ。袋の中には、やたら強いカールをつけた女性用のカツラと大きなサングラス、そしてマスクが入っていた。
「例の架空口座の金を、キャッシュカードでおろさなあかんやろ」車のエンジンをかけながら桐原がいった。「その時には、できるだけ変装したほうがええ。多少不自然でも、カメラに顔が写らんようにせんとな」
「至れり尽くせりね。ありがとう。使わせてもらう」奈美江は紙袋を、すでに満杯と思われるボストンバッグに押し込んだ。
「向こうへ着いたら連絡してくれよな」友彦がいった。
「うん」と奈美江は笑顔で頷いた。
桐原が車を発進させた。
奈美江を新幹線に乗せた後、友彦は桐原と共に事務所に引き返した。
「うまいこと逃げのびられたらええんやけどな」
友彦がいってみたが、桐原は何とも答えなかった。そのかわりに、こんなことを訊いてきた。
「エノモトとの話、聞いたか」
うん、と友彦は答えた。
「あほやろ、あの女」
「えっ……」
「エノモトは最初から奈美江に近づくつもりやったんや。奈美江の銀行での立場を利用しようと企んだんやろ。彼女が交通事故を起こしてヤクザにからまれたというのも、全部エノモトが仕組んだことに決まってる。そんな単純なことにも気づかへんのやから、どうかしてるで。あの女は昔からそうや。男に溺《おぼ》れて、まともな判断がでけへんようになる」
何もいい返せず、友彦は唾を飲んだ。だがまるで鉛を飲み込んだように胃袋が重くなった。桐原のような発想は全くなかった。
この日、友彦は早めに帰宅した。そうして奈美江からの電話を待った。
だが電話はなかった。
西口奈美江の死体が、名古屋のビジネスホテルで発見されたのは、友彦が彼女を見送ってから四日目のことだった。胸部と腹部をナイフのようなもので刺されていた。この時点で、死後七十二時間以上が経過していると判断された。
奈美江が勤務する銀行には、二日間の休暇届が出されていた。三日目からは無断欠勤となり、行内でも彼女の行方を捜していたという。
奈美江の持ち物の中には、五つの預金通帳が入っていた。そこに入っていた預金総額は月曜日の時点では二千万円をはるかに越えるものだった。それが死体発見時には、殆どゼロになっていた。
銀行が調査した結果、彼女は長年にわたって不正送金を行っていた。五つの預金通帳も、その目的に使われたものらしかった。
警察は、西口奈美江が送金していた口座から、会社役員|榎本《えのもと》宏《ひろし》を横領の疑いで逮捕した。また西口奈美江が殺された事件についても、榎本を取り調べる方針だということだった。
ただ、奈美江が五つの口座から引き出したはずの金は、まだ見つからなかった。奈美江自身がカードで下ろしたことは確実だった。現金自動預入支払機の防犯カメラに、変装した女が映っていたのだが、用いられたカツラ、サングラス、マスクが、彼女の荷物の中から見つかっているからだ。
以上の内容を載せた新聞を読んだ後、園村友彦はトイレに駆け込み、胃の中がからっぽになるまで嘔吐《おうと》した。