奥の歯が、かちかちと鳴っている。全身の震えは止まらなかった。
目を閉じて、眠ろうとする。しかし眠りに入りかけると同時に、顔のない男にのしかかられる夢を見る。恐怖のあまり目を覚ます。身体中から冷や汗が出て、胸が潰れそうになるほど心臓が暴れる。その繰り返しだ。
もう何時間同じことをしているのだろう。やすらぎを得られる時は来るのだろうか。
今日の出来事が、現実に起こったことだとは信じたくなかった。昨日や一昨日と同じように、何も変わらぬ一日だったと思いたかった。しかしあれは夢ではない。下腹部に残る鈍い痛みがその証《あかし》だ。
「あたしに任せて。美佳さんは何も考えなくていいから」雪穂の声が耳に蘇る。
あの時彼女がどこから現れたのか、美佳はよく覚えていない。彼女に対してどんなふうに事情を話したのかもさだかではない。たぶんあの時は何も話せなかったはずだ。しかし雪穂は何が起きたのかを瞬時に察知したらしかった。気がつくと美佳は服を着せられ、雪穂のBMWに乗せられていた。雪穂は車を運転しながら、どこかへ電話をかけていた。彼女の口調が速くなっていることと、美佳自身の思考能力が鈍っていることから、その話の内容を理解することは美佳にはできなかった。ただ、「絶対に極秘で」と雪穂が繰り返していたことはおぼろげに覚えている。
連れて行かれたところは病院だった。だが正面玄関からではなく、裏口のようなところから中に入った。なぜ表から入らないのだろうというような疑問は、その時は湧かなかった。美佳の魂は彼女の身体にはなかったのだ。
検査が行われたのか、何らかの治療らしきことが行われたのか、美佳自身にはよくわからない。彼女はただ身体を横たえ、じっと目をつぶっていただけだ。
一時間後には病院を後にしていた。
「身体のことは、これでもう何も心配しなくていいからね」車を運転しながら雪穂は優しくいった。何と答えたのか、美佳は覚えていない。おそらく黙ったままだったのだろう。
雪穂は警察への通報については、一言も触れなかった。それどころか、詳しい事情を美佳から聞き出そうとさえしなかった。それらのことは彼女にとって些細なことででもあるかのようだった。それが美佳としてはありがたかった。とても話などできる状態ではなかったし、何が起きたのかを見知らぬ人間に知られるのは怖かった。
家に帰ると、康晴の車が車庫に戻っていた。それを見た途端、心が押し潰されそうになった。パパにこのことを何と話したらいいだろう――。
すると雪穂が、この程度の嘘は何でもないという顔でいった。「おとうさんには、ちょっと風邪気味だから、病院に連れていってきたと話しておくわね。夕食も、妙さんにお願いして、お部屋に運んでもらいましょう」
この時美佳は、すべてが二人だけの秘密になるのだと知った。自分がこの世で一番嫌いな女性との、二人だけの秘密に――。
康晴を前にした雪穂の演技は見事だった。彼女は美佳に話したとおりの説明を夫にした。康晴は少し心配そうな顔をしたが、「大丈夫。病院でお薬をもらってきたから」という妻の台詞に安心したようだった。そして美佳の明らかにいつもと違う様子についても、格別疑問を抱いたふうでもなかった。むしろ、美佳が日頃嫌っている雪穂に連れられて病院に行ったという事実に満足しているようだった。
その後は美佳はずっと部屋にいた。雪穂に指示されたらしく、夕食は妙子が運んできてくれた。妙子がテーブルに料理を並べている間、美佳はベッドの中で眠っているふりをした。
食欲などまるでなかった。妙子が出ていった後、美佳はスープとグラタンを少しずつ胃に入れてみたが、今にも吐き戻しそうになり、食べるのをやめた。その後はずっとベッドの中で丸くなっている。
夜が深まるにつれ、恐怖は徐々に増大した。部屋の明かりはすべて消していた。暗闇の中に一人でいるのは怖いが、明かりの中に自分の姿を晒《さら》しているのはもっと不安だった。誰かが自分のことを見ているような気がするのだ。海の小魚のように、岩陰でひっそりと生きていたかった。
一体今は何時なのだろう。夜明けまで、どれほどの苦痛を味わわねばならないのだろう。そしてこんな夜がこれからいつまで続くのだろう――不安に押しつぶされそうになり、彼女は親指を噛《か》んだ。
その時だった。かちゃり、とドアのノブの回る音がした。
ぎくりとし、美佳はベッドの中から入り口を見た。ドアが静かに開くのが、闇の中でもわかった。誰かが入ってくる。銀色のガウンがかすかに見える。「誰?」と美佳は訊いた。声がかすれた。
「やっぱり起きてたのね」雪穂の声が聞こえた。
美佳は目をそらした。忌まわしい秘密を共有する相手に、どういう態度をとっていいかわからなかった。
雪穂が近づいてくる気配があった。美佳は横目で見た。雪穂はベッドの足元に立っていた。
「出ていって」と美佳はいった。「ほうっておいて」
雪穂は何も答えなかった。黙ったままガウンの紐をほどき始めた。するりとガウンを脱ぎ捨てると、白い裸体がぼんやりと浮かび上がった。
美佳が声を出す間もなく、雪穂はベッドの中にもぐりこんできた。美佳は逃げようとした。しかし強引に押さえ込まれた。思ったよりも、ずっと強い力だ。
ベッドの上で美佳は大の字にされた。その上にのしかかってくる。豊かな乳房が二つ、美佳の胸の上で揺れた。
「やめて」
「こんなふうにされたの?」雪穂は訊いてきた。「こんなふうに押さえ込まれたの?」
美佳は顔をそむけた。するとその頬を掴まれ、ぐいと戻された。
「目をそらさないで。こっちを見なさい。あたしの顔を見て」
美佳はおそるおそる雪穂を見た。ややつり上がり気味の大きな目が、美佳を見下ろしていた。息がかかりそうなほど、顔が近くにある。
「眠ろうとすると、襲われた時のことが蘇るんでしょう?」雪穂はいった。「目を閉じるのが怖くて、眠って夢を見るのも怖い。そうでしょう?」
うん、と美佳は小さく返事した。雪穂は頷いた。
「今のあたしの顔を覚えておきなさい。男に襲われた時のことを思い出しそうになったら、あたしのことを思い出すのよ。あたしにこんなふうにされたことを」雪穂は美佳の身体に跨《またが》り、彼女の両肩を押さえ込んだ。美佳は全く動けなくなった。「それとも、あたしの顔を思い出すくらいなら、襲った男のことを思い出したほうがまし?」
美佳は首を横に振った。それを見て、雪穂はかすかに微笑んだ。
「いい子ね。大丈夫。すぐに立ち直れる。あたしが守ってあげるから」雪穂は両手で美佳の頬を包み込んだ。そして肌の感触を楽しむように、掌を動かした。「あたしもね、あなたと同じ経験があるの。ううん、もっとひどい経験」
美佳は驚いて声を出そうとした。その唇に、雪穂が人差し指を当てた。
「今の美佳さんよりも、もっと若い頃よ。まだ本当に子供。でも子供だからといって、悪魔に襲われないとはかぎらないのよね。しかも悪魔は一匹じゃなかった」
うそ、と美佳は呟いた。だが声にならなかった。
「今のあなたは、あの時のあたし」雪穂は美佳に覆い被さってきた。両腕で美佳の頭を抱きかかえてきた。「かわいそうに」
その瞬間、美佳の中で何かが弾けた。これまで断ち切られていた何かの神経が繋がるような感覚があった。その神経を通じて、悲しみの感情が洪水のように美佳の心に流れ込んできた。
美佳は雪穂に抱かれたまま、わあわあと声をあげて泣きだした。