この日内藤聡美は、胸|躍《おど》らせることと憂鬱なことを一つずつ抱えたまま、『キュリアス』に出勤した。
いいことは、松山文彦とのことが順調に進んでいることである。今日もそのことで部長に呼ばれたのだ。
松山文彦は、本社の生産技術部に籍を置く男性社員だが、ふつうの社員ではなかった。彼は、東西電機の下請け会社である松山製作所の跡とり息子なのだ。当然将来は父親の会社に戻ることが決まっていて、いわば修業の形で東西電機に籍を置いている。そのことは東西電機の人事部も先刻承知で、生産技術部という部署が選ばれたのも、そこが最も松山製作所と繋がりがあるからにほかならなかった。
その松山文彦が聡美のことを見初《みそ》めたのは、二か月ほど前らしい。打ち合わせで何度も新座工場に通ううちに、彼女のことを知り、気に入ったということだった。
交際したいという申し出が、何と部長経由で聡美に伝えられた。それが十日前のことである。
聡美は松山文彦のことは知っていたが、彼がそんな気持ちでいることなど想像したことがなかった。そして何より、彼がそんな特別な社員であることを知らなかった。それで、興味もなかったのだ。
だが部長から詳しい事情を知らされ、彼女は俄然松山文彦に関心を持った。これが自分に与えられた、人生最大のチャンスのように思えた。
部長は彼女に二つのことを訊いた。付き合っている相手はいないか、松山君と交際する気はないか、ということである。
特定の相手はいない、と彼女は即座に断言した。そして、この話については、じっくり考えて返事したいと答えておいた。
そして今日、部長に呼ばれ、返事を聞かせてほしいのだがといわれた。聡美は少々照れた演技をして、お付き合いしてみても結構です、と答えた。部長は晴れ晴れとした顔をし、まるで結婚話がまとまったように祝福の言葉を並べた。
幸福な気分に浸って部長室を出た聡美だったが、職場に戻って間もなく、不愉快な思いをさせられた。その不吉な風を運んできたのは、隣の課の橋本妙子だった。一見親切そうだが、じつは底に陰険な性格を秘めている、この一年先輩の女子社員が、聡美は大嫌いだった。
今日も聡美が席につくなり、さも親しげに妙子は話しかけてきた。
「さっき、おたくの課に、変わったお客さんが来てたのよ」
「えっ、どういう人ですか」
「それがねえ」妙子は声を落とした。「警察の人」
ぎくりとしたが、聡美は平静を装った。
「へえ、何かあったのかしら」
「殺人事件らしいわよ」
「えっ」さすがに身体が熱くなった。
「それでねえ、どういうわけか、あたしだけ後から特別に呼ばれたの。で、何を訊かれたと思う?」
妙子が唇から赤い舌を覗かせるのを見て、聡美は蛇を連想した。
「わかりません。何を訊かれたんですか」
「それがねえ」妙子はさらに声を低くしていった。「あなたのことよ。恋人はいるのか、とか。派手な性格か、とか」
聡美は言葉を失っていた。なぜ刑事が自分のことを嗅ぎまわり始めたのか、見当がつかなかった。
「でも、安心して」と妙子はいった。「いいようにいっておいてあげたから。とってもいい子だって。刑事さんも信用してたみたい」
「それはどうもありがとうございます」
聡美がいうと、妙子は勝ち誇ったような顔をして自分の席に戻っていった。その後ろ姿を見て、聡美は吐き気を催した。
妙子が本当に自分のことをいいように話したわけがない、と聡美は考えていた。いずれ直接自分のところへ刑事が来ることも覚悟しなければ、と思った。
でも大丈夫、証拠なんてないんだ――。
高崎邦夫を殺した時、彼がいつも持っているセカンドバッグの中から、聡美が金を借りた時に書かされた借用書は、全部回収しておいた。指紋は残さなかったつもりだし、高崎との間に特別な関係があったことなど、誰も知らないはずだった。
気を取り直し、彼女はいつも通り、酔客の相手をした。そろそろこの店を辞めることも考えなければと彼女は考え始めていた。東西電機はアルバイト禁止だ。それでなくても、こんなところを会社の人間に知られたりしたら、松山文彦との話に悪影響が出るのは必至だった。
折を見てママに話そう――聡美がそんなことを考えていた時だった。軽く肩を叩かれた。先輩ホステスの亜佐美だった。
「カウンターにいる彼が、あんたに話があるらしいんだけど」耳元でそう囁いて、カウンター席のほうを親指で示した。
何だろうと思い、聡美はカウンターを見た。同時に、顔をしかめそうになった。
田上昇一が、全く似合わない背広を着て、彼女のほうを見ていた。