黒い手
そのとき、始君は何を見たのか、アッと小さいさけび声をたてて、おとうさまのうしろの床の間を見つめたまま、化石したようになってしまいました。その始君の顔といったらありませんでした。まっさおになってしまって、目がとびだすように大きくひらいて、口をポカンとあけて、まるできみの悪い生き人形のようでした。
おとうさまもおかあさまも、始君のようすにギョッとなすって、いそいで、床の間のほうをごらんになりましたが、すると、おふたりの顔も、始君とおなじような、おそろしい表情にかわってしまいました。
ごらんなさい。
床の間のわきの書院窓が、音もなく細めにひらいたではありませんか。そして、そのすきまから、一本の黒い手が、ニューッとつきだされたではありませんか。
「アッ、いけない。」
と思うまもあらせず、その手は、花台の宝石箱をわしづかみにしました。そして、黒い手はしずかに、また、もとの障子のすきまから消えていってしまいました。黒い魔物は、大胆不敵にも三人の目の前で、のろいの宝石をうばいさったのです。
おとうさまも、始君も、あまりの不意うちに、すっかりどぎもをぬかれてしまって、黒い手にとびかかるのはおろか、座を立つことすらわすれて、ぼうぜんとしていましたが、黒い手がひっこんでしまうと、やっと正気をとりもどしたように、まずおとうさまが、
「今井君、今井君、くせ者だ、早く来てくれ……。」
と、大きな声で秘書をおよびになりました。
「あなた、緑ちゃんに、もしものことがあっては……。」
おかあさまの、うわずったお声です。
「ウン、おまえもおいで。」
おとうさまは、すぐさまふすまをひらいて、おかあさまといっしょに、緑ちゃんのいる、部屋へかけこんで行かれましたが、さいわい緑ちゃんにはなにごともありませんでした。
いっぽう、おとうさまの声に、急いでかけつけた秘書の今井と、始君とは、廊下のガラス戸が一枚あいたままになっていましたので、そこから庭へとびおりて、くせ者を追跡しました。
黒い魔物は、つい目の前を走っています。暗い庭の中で、まっ黒なやつを追うのですから、なかなか骨が折れましたが、さいわい、庭のまわりは、とても乗りこせないような、高いコンクリート塀で、グルッと、とりかこまれていますので、くせ者を塀ぎわまで追いつめてしまえば、もう、こっちのものなのです。
案のじょう、くせ者は塀に行きあたって当惑したらしく、方向をかえて、塀の内がわにそって走りだしました。塀ぎわには、背の高い青ギリだとか、低くしげっているツツジだとか、いろいろな木が植えてあります。くせ者はその木立ちをぬって、低いしげみはとびこえて、風のように走っていきます。
ところが、そうして少し走っているあいだに、じつにふしぎなことがおこりました。くせ者の黒い姿が、ひとつの低いしげみをとびこしたかと思うと、まるで、忍術使いのように、消えうせてしまったのです。
始君たちは、きっとしげみのかげに、しゃがんでかくれているのだろうと思って、用心しながら近づいていきましたが、そこにはだれもいないことがわかりました。くせ者は蒸発してしまったとしか考えられません。
しばらくすると、電話の知らせで、ふたりのおまわりさんがやってきましたが、そのおまわりさんと、家中のものが手分けをして、懐中電燈の光で、庭のすみずみまでさがしたのですけれど、やっぱりあやしい人影は発見できませんでした。むろん宝石をとりもどすこともできなかったのです。
これがインド人の魔法なのでしょうか。魔法ででもなければ、こんなにみごとに消えうせてしまうことはできますまい。
読者諸君は、いつかの晩、篠崎始君の友だちの桂正一君が、養源寺の墓地の中で、黒い魔物を見うしなったことを記憶されるでしょう。こんどもあのおりとまったく同じだったのです。くせ者は追っ手の目の前で、やすやすと姿を消してしまったのです。
ああ、インド人の魔法。インド人は、始君のおとうさまがおっしゃったように、ほんとうにそんな魔術が使えるのでしょうか。もしかしたら、このあまりに手ぎわのよい消失には、何かしら思いもよらない手品の種があったのではないでしょうか。