それは黒田清太郎という、新聞でも盛んに賛美して居った所の刑事巡査だが、これが奇特な男で、日頃探偵小説の一冊も読んでいようという奴さ。とマア素人考えに想像するんだがね。その男が飜訳物の探偵小説にでもある様に、犬の様に四つん這になって、その辺の地面を嗅ぎ廻ったものだ。それから、博士邸内に這入って、主人や召使に色々の質問を発したり、各部屋のどんな隅々をも残さないで拡大鏡を以て覗き廻ったり、マア、よろしく新しき探偵術を行ったと思い給え。そして、その刑事が、長官の前に出て言うことには『こりゃ、も少し検べて見なければなりますまい』という訳だ。そこで、一座俄に色めき立って、とりあえず死体の解剖ということになる。大学病院に於て、何々博士執刀の下に、解剖して見ると、黒田名探偵の推断誤らずという訳だね。轢死前既に一種の毒薬を服用したらしい形跡がある。つまり、何者かが夫人を毒殺して置いて、その死骸を鉄道線路まで運び、自殺と見せかけて、実は恐るべき殺人罪を犯したということになる。その当時の新聞は『犯人は何者ぞ』という様なエキサイティングな見出しで、盛んに我々の好奇心を煽ったものだ。そこで、係検事が黒田刑事を呼出して、証拠調べの一段となる。
さて、刑事が勿体ぶって持出した所の証拠物件なるものは、第一に一足の短靴、第二に石膏で取った所の足跡の型、第三に数枚の皺になった反故紙、一寸ロマンティックじゃないか。この三つの証拠品を以って、この男が主張するには、博士夫人は自殺したんではなくて、殺されたんだ。そしてその殺人者は、なんと、夫富田博士その人である。とこういうんだ。どうだい、なかなか面白いだろう」
話手の青年は、一寸ズル相な微笑を浮べて相手の顔を見た。そして、内ポケットから銀色のシガレットケースを取出し、如何にも手際よく一本のオックスフォードをつまみ上げて、パチンと音をさせて蓋を閉じた。
「そうだ」聞手の青年は、話手の為に燐寸を擦ってやり乍ら「そこまでは、僕も大体知っているんだ。だが、その黒田という男が、どういう方法で殺人者を発見したのか、そいつが聞きものだね」
「好個の探偵小説だね。で、黒田氏が説明して云うことには、他殺ではないかという疑を起したのは、死人の傷口の出血が案外少いといって警察医が小首を傾けた。その極めて些細な点からであった。去る大正何年何月幾日の――町の老母殺しに、その例があるというんだ。疑い得る丈け疑え、そして、その疑いの一つ一つを出来る丈け綿密に探索せよ、というのが探偵術のモットーだそうだが、この刑事もその骨を呑込んで居ったと見えて、一つの仮定を組立てて見たのだ。誰れだか分らない男又は女が、この夫人に毒薬をのませた。そして、夫人の死体を線路まで持って来て汽車の轍が、万事を目茶苦茶に押しつぶして呉れるのを待った。と仮定するならば、線路の附近に死体運搬によってつけられた、何かの痕跡が残っている筈だ。とこう推定したんだ。そして、何とマア刑事にとって幸運であったことには、轢死のあった前夜まで雨降り続きで、地面に色々の足跡がクッキリと印せられていた。それも、前夜の真夜中頃雨が上ってから、轢死事件のあった午前四時何十分までに、その附近を通った足跡丈けが、お誂向に残っていたという訳だ。で刑事は先に云った犬の真似を始めたんだ。が、此処へ一寸現場の見取図を描いて見よう」左右田は、――これが話手の青年の名前であるが――こういってポケットから、小形の手帳を取出して、鉛筆でザッとした図面を書いた。