「鉄道線路は地面よりは小高くなっていて、その両側の傾斜面には一面に芝草が生えている。線路と富田博士邸の裏口との間には大分広い、そうだ、テニスコートの一つ位置かれる様な空地、草も何も生えていない小砂利混りの空地がある。足跡の印せられてあったのはその側であって、線路のも一つの側、即ち博士邸とは反対の側は、一面の水田で、遙に何かの工場の煙突が見えようという場末によくある景色だ。東西に伸びた――町の西のはずれが、博士邸其他数軒の文化村式の住宅で終っているのだから、博士邸の並びには線路とほぼ並行して、ズッと人家が続いていると思い給え。で、四ん這になった所の黒田刑事が、この博士邸と線路の間の空地に於て、何を嗅ぎ出したかというと、そこには十以上の足跡が入交っていて、それが轢死の地点に集中しているといった形で、一見しては何が何だか分らなかったに相違ないが、これを一々分類して調べ上げた結果、地下穿きの跡が幾種類、足駄の跡が幾種類、靴の跡が幾種類と、マア分ったんだ。そこで、現場にいる連中の頭数と、足跡の数とを比べて見ると、一つ丈け足跡の方が余計だと分った。即ち所属不明の足跡が一つ発見されたんだ。而かもそれが靴の跡なんだ。その早朝、靴を穿いているものは、先ず其筋の連中の外にない訳だが、その連中の内にはまだ一人も帰ったものは無かったのだから、少しおかしい訳だ。尚およくよく調べて見ると、その疑問の靴跡が、何と博士邸から出発していることが分ったんだ」
「馬鹿に詳しいもんだね」と、聞手の青年、即ち松村が、こう口を入れた。
「イヤ、この辺は赤新聞に負う所が多い。あれは斯うした事件になると、興味中心的に、長々と報道するからね、時にとって役に立つというものだ。で、今度は博士邸と轢死の地点との間を往復した足跡を調べて見ると、四種ある。第一は今いった所属不明の靴跡、第二は現場に来ている博士の地下穿きの跡、第三と第四は博士の召使の足跡、これ丈けで、轢死者が線路まで歩いて来た痕跡というものが見当らない。多分それは小形の足袋跣の跡でなければならぬのに、それがどこにも見当らなかったのだ。そこで、轢死者が男の靴を穿いて線路まで来たか。然らざれば、何者かこの靴跡に符合するものが夫人を線路まで抱いて運んで来たかの二つである。勿論前者は問題にならない。まず後の推定が確かだと考えて差支ない、というのは、其靴跡には一つの妙な特徴があったのだ。それはその靴跡の踵の方が非常に深く地面に食い入っている。どの一つをとって見ても同様の特徴がある。これは何か重いものを持って歩いた証拠だ。荷物の重味で踵が余計に食い入ったのだ。と刑事が判断した。この点について、黒田氏は赤新聞で大いに味噌を上げているが、その曰くさ。人間の足跡というものは、色々な事を我々に教えて呉れるものである。斯ういう足跡は跛足で、斯ういう足跡は盲目で、斯ういう足跡は妊婦でと大いに足跡探偵法を説いている。興味があったら昨日の赤新聞を読んで見給え。
話が長くなるから、細い点は略するとして、その足跡から黒田刑事が苦心して探偵した結果、博士邸の奥座敷の縁の下から、一足の、問題の靴跡に符合する短靴を発見したんだ。それが、不幸にも、あの有名な学者の常に用いていたものだと、召使によって判明したんだ。その他細い証拠は色々ある。召使の部屋と、博士夫妻の部屋とは可也隔っていることや、当夜は召使共は、それは二人の女であったが、熟睡していて朝の騒ぎで始めて目を覚し、夜中の出来事は少しも知らなかったということや、当の博士が、当夜めずらしく在宿して居ったということや、その上、靴跡の証拠を裏書きする様な、博士の家庭の事情なるものがあるんだ。その事情というのは、富田博士は、君も知っているだろうが、故富田老博士の女婿なのだ。つまり夫人は家つきの我儘娘で痼疾の肺結核はあり、御面相は余り振わず、おまけに強度のヒステリーと来ているんだ。其処に面白からぬ夫婦関係が醸成されつつあった事は、何人も想像し得るじゃないか。事実、博士はひそかに妾宅を構えて何とかいう芸妓上りの女を溺愛しているんだ。が、僕はこういうことが、博士の値うちを少しだって増減するものとは思わないがね。さて、ヒステリーという奴は大抵の亭主を狂気にして了うものだ。博士の場合も、これらの面白からぬ関係が募り募って、あの惨事を惹起したのだろう。という推論は、まず条理整然としているからね。