物には表裏があり、人間にも表裏がある。かれはその裏側のほうの人間を探求しようとしたのである。それも社会学的、心理学的にではなく、しいていえば犯罪学的に探求しようとした。しかし、普通犯罪学者がやるような一般的研究ではなくて、これと目ざした個々の人間の、世間にも、その人自身の家族にさえも知られていない秘密の生活を探求することが、かれの生きがいであった。
この探求は自由主義者には蛇蝎のごとく憎悪せられる種類のものであった。お互いに個人の秘密を尊重するというのが、自由主義者のモットーであった。医師が患者の病状を他人には絶対に口外しないという、あの秘密主義が自由主義者の考え方であった。したがって、かれのこの探求は、自由主義の世界ではスパイ行為として極度にけいべつせられるばかりか、多くの場合犯罪でさえあった。その意味で、いや、その意味以上に、かれは犯罪者であった。
人間というものは、たったひとりでいるとき、そばに人目のないときには、どんな異様な行為をするかわからないということを、かれは自分の体験から割り出して知悉していた。体験ばかりでなく、かれがそういう生活をはじめてからの数々の経験が、これを証明していた。表側の人間と裏側の人間とが、どんなにちがっているか、それを知ることは、怪談のように恐ろしかった。手袋を裏返すように、人間を裏返すと、そこには思いもよらない奇怪な臓物が付着していた。かれはそういう裏返しの人間を見ることに、こよなき興味を持った。つまり、かれの探求欲は、唾棄すべきスパイ精神と相通ずるものがあったのである。
この探求には副産物があった。富裕な人間の裏側を見たときには、それを武器として、相手から多額の金銭をゆすり取ることができた。探求にはずいぶん元手がかかるけれども、ゆすりによって、その何倍の収入があった。どんな商売よりも有利な金もうけであった。ゆすりは明確に犯罪である。だから、かれは争う余地のない犯罪者であった。ただ、相手のほうに告発しえないという弱点があるので、最も安全な犯罪であって、いつまでもその所業をつづけることができるというにすぎなかった。
だが、相手が悪人であった場合には、逆スパイを使ってかれを窮地におとしいれることもできるだろうし、場合によっては生命をねらわれるおそれさえあった。速水はそういうことも予想して、あらゆる用心を怠らなかった。かれはまたそういう用心にはもってこいの知恵と、体力と、技術を身につけていた。
相手に気づかれず、その人の裏側を探求するためには、隠れみのが必要であった。ウエルズの『透明人間』が理想の境地であった。速水はひとつ透明人間になってやろうと考えた。むろん、文字どおり透明になれるはずはない。そこで、できるだけ体色をぼかし薄めて、影のような人間になることをくふうした。それには日本の古代の忍術というものが大いに参考になった。忍術師はある意味で透明人間になりえたのである。かれらは盗賊のまやかし術から出発して、戦国武将のもとになくてかなわぬ存在となり、くふうと修練を重ねて、巧みな技術を編み出していた。速水の隠身術は、いわばこれを近代化したものであった。
かれのくふうの一つに、色メリヤスのシャツとズボンがあった。ごく薄手の弾力のあるメリヤス地を、ネズミ、黄、茶、赤、黒など各種の色に染めて、常に身辺に用意していた。たとえば、夕がたの薄やみを利用して行動する場合には、ぴったり身についたネズミ色のシャツとズボンを着用した。シャツのそでの先はそのまま手袋になっていたし、ズボンのすそはそのままくつ下につづいていた。それを着用すれば、首から上をのぞいた全身が、夕やみ色のネズミ一色になった。場合によっては、同じ色の覆面を、頭からすっぽりかぶることもあった。目と口に小さな穴のあいた袋である。それがメリヤスの弾力でぴったり顔にくっつくようになっていた。
黄色い壁や茶色の壁の日本建築にはいるときには、黄色や茶色のシャツを着るし、赤いカーテンのまえでは赤いシャツに着替え、森の中では濃緑のシャツ、くらやみには黒のシャツというわけであった。
忍術では、やみ夜にはまっくろな衣装よりは、かわいた血のようなどす黒い赤が最も目に見えないと言い伝えられているが、速水はむろん、そういうどす黒い赤のシャツも用意していた。