つまり、保護色なのである。動物や昆虫の保護色の原理を、色シャツの手早い取り替えという方法で応用したのである。ごく薄手のメリヤスだから、何枚重ねてもたいしてからだがふくらむわけではない。そのつどつど、いくつかの背景にふさわしい色シャツを適当に組み合わせて重ね着し、とっさにそれを脱いだり、別の色シャツを上から着こんだりして、動物界の体色の変化と同じ働きをさせるので、その脱いだり着たりする手早さには修練を要したし、シャツとズボンの作り方にもさまざまのくふうが必要であった。
古い建物の壁に住む、おしつぶしたように平べったい灰色の大グモがある。あの灰色のからだが、やっぱり保護色で、古壁の色と見わけがつかず、あの大グモが目にもとまらぬ早さで壁をはいまわる様子は、なんだかかすみのようで、虫類遁形の術という感じだが、影男速水荘吉の色シャツ応用の隠身術は、あの平グモにそっくりであった。
これは影男の技術のほんの一例にすぎないが、まあそういうふうな奇術と曲芸に類する数々の隠身術を発明し、それぞれの道具をくふうしていたのである。
かれの人間裏返しの探求には、いま一つの副産物があった。かれはその探求によって得た資料に基づいて、怪奇犯罪小説を書き、一躍名をなしたのである。編集者や読者は、かれの作品を荒唐無稽な純空想の産物と考えていた。現実とはなんの関係もない作りごとと考えていた。
速水――いや、佐川春泥のほうでも、まったくの空想と見せかけるような書き方をしたのだが、事実はその大部分が現実の資料によるものであった。かれの「裏返しの人間探求」の副産物にすぎなかった。
佐川春泥の人気があがるにつれて、原稿料も増してきたから、その収入もばかにならなかったが、しかし、かれは金もうけのために書くのではなかった。隠身術による人間探求の結果を、小説の形でそれとなく世間に見せびらかすのが楽しかったのである。ゆすりのほうでばくだいな収入があったのだから、いくら高くても原稿料など問題でなかった。かれ自身の秘密をこれ見よがしに見せつけて、しかも世間のほうでは、世にもまれなる空想力の作家と思いこんでいる、そのまやかしが愉快でたまらなかったのである。
速水は三十三歳の、むちのように強靭で、しなやかなからだの、やせ型の好男子であった。だが、かれは顔面扮装術においても、俳優以上の技術を持っていたから、ほんとうの素顔はだれにも見せていなかった。衣装ばかりでなく、顔面や頭髪などにも、絶えず化身の術を応用し、場合によっては七十歳の老人にも、二十代の美女にも化ける才能を持っていた。
遁形術者のかれは、住まいも一定しているはずはなかった。同時に、多くの居どころを持っていたが、それに限定されるわけではなく、あらゆる場所がかれの住まいとなりえた。帝国ホテルも、山谷あたりのドヤ街の木賃宿も、上野公園のベンチでさえも、お茶の水渓谷の洞窟でさえも、差別なくかれの住まいとなりえた。
かれはまた、多くの恋人を持っていた。そして、そのおのおのの恋人が、自分こそかれの唯一の愛人だと信じていた。かれの恋人のなかには、十七歳の美少年さえ含まれていた。それらの恋人を、かれは人間探求事業の助手として巧みに駆使していた。恋人たちはお互いにほとんど知り合っていなかった。
張ホテルの秘密室で、S県の多額納税者、此村大膳の醜態を三十六枚のフィルムに撮影した結果は、上々の首尾であった。まず書留親展の手紙にその写真の一枚を封入して送っておいて、此村の自宅に電話をかけ、ゆすりの金の受け渡しの時間と場所を指定すると、相手は一言もなく三百万円の金包みを持って、みずからその場所へ出向いてきた。
此村は明治神宮外苑の入り口で車を捨て、オーバーのえりで顔を隠した忍び姿で外苑の森の中へはいると、指定された石のベンチに腰かけて、つくねんと待っていた。速水は夜の森の色と同じ色シャツと覆面で、此村のうしろからもうろうとして立ち現われ、金包みを受け取ると、残る三十五枚のフィルムを投げ返しておいて、そのまま得意の隠形術で、森の立ち木の中へ溶けこむように消えていった。