やがて、コップをからにしてしまうと、物ほしそうな、実にいやしい顔になって、
「もう一杯、ね」
と、ねこなで声を出した。そして、新しく来たコップをまた半分ほど飲んだが、そのころから、何かうつろな目になって、考えごとをはじめた。しばらくむっつりと黙りこんでいたが、血走った大きな目を(このぼろ男の目は、団十郎のように大きな二かわ目であった)パチパチやったかと思うと、目の中がわくようにふくれ上がって、ポロポロと大粒な涙がこぼれた。
「おまえさん、聞いてくれるかね。おらあ、おまえさんに話したいことがあるんだ」
そして、犬のようにあどけなく首をかしげて、じっとこちらを見た。
「うん、聞くよ。話してごらん」
男は大きな目を細くして、赤い舌でペロペロとくちびるをなめた。
「若い衆、おれをなんだと思うね……人外さ。それはわかってらあ。だが、おれの前身をなんだと思うね」
速水は人間観察に慣れていたので、この質問に答えるのはわけもなかった。
「軍人だろう。それも将校だ。大尉かね」
「えらい。おまえさん、人相見かね。そのとおりだよ。おれは陛下の忠勇なる陸軍大尉だった。生涯、軍に身をささげるつもりだった」
そういって、またポロポロと涙をこぼした。この五十男は、兵卒から経上がった職業軍人らしかった。そういう体臭が感じられた。
「りっぱな軍人だった。金鵄勲章もいただいとる。感謝状を何本ももらっとる。北支の戦場では、元野部隊長閣下が、親しくおれの手を取って『えらいやつだ』と涙をこぼして感謝された。おれは百三十人の生き残りの部下とともに、五十六高地の孤塁を守って、三千の敵を追いちらし、後続部隊との連絡を全うした。それは大作戦の成否にかかわる重大地点だった。おれの金鵄勲章は、その功績によるものだ」
ぼろ男も、それを語るあいだだけは、姿勢もしゃんとして、百戦錬磨の古強者らしく見えた。だが、かれはまたぐったりとなってしまった。そして、しきりに大粒の涙を流した。
「おれは申しわけない。実に申しわけない。忠勇なる陛下の軍人ともあろうものが、このざまはなんだ。畜生道におちて、人外になってしまった。おらあ死にたい。そこいらのやつをみんな殺して、死んでしまいたい。だが、もう手おくれだ。日本が降伏したとき、切腹することができなかった。なぜできなかったか、おれにもわからない。もともと、おれは人外だったんだ。軍という組織をはなれたら、何一つできないぐうたらべえだったんだ。あれからというもの、落ちた、落ちた、世の中の底の底まで落ちた。そして、人外のけだものになりさがってしまった」
男は酒場の中をグルッと見まわした。かれの声がだんだん大きくなったので、酒場の客たちのうちには、好奇の目でじろじろこちらを見ているものもあった。
「若い衆、おれが人外だという証拠をひとつ話そうか……おらあ、かかあがある。それから、ちっちゃい娘がある。それだけだ。掘っ立て小屋に住んでいる。おれが木ぎれを拾い集めて造ったんだ。娘はまえのおっかあの子だ。そのおっかあは死んじまった。だから、娘は今のおっかあのままっ子だ。いじめられる。今のおっかあは肺病やみで、寝ているんだ。寝ていて娘をこき使い、ひっぱたくんだ。その娘をいくつだと思うね。まだ十二なんだぜ。学校なんか行けやしない。毎晩夜ふけまで、酒場へ花を売りに行くんだ。十二の子のその収入が、おれたちの全部の収入だ。え、わかるかね。軍人の恩給証書なんて、とっくに高利貸しにとられちゃった。おれがみんな飲んだのさ。おれのかわいい娘は、いまにパンパンになるんだ。え、どうだね。金鵄勲章をいただいた忠勇なる帝国軍人のひとり娘が淫売になるんだぜ。
おらあ、日本が降伏してから、いろんな勤めをやってみたが、とても続かない。軍人にゃあ、せちがらい浮き世は渡れねえんだ。みんなしくじった。あっさりしくじっちゃった。おれはもともとのんべえだったが、アル中こじきにおちぶれたのは、いくさに負けたからだ。