水中巨花
やがて、またしても、海面が波立って、水底からスーッと白いものが浮き上がってくるのが見えた。そして、水面に顔を出したのは、これもまた美しい人魚であった。
「お客さま、ようこそおいでくださいました。これから、わたくしどもが、海の底へご案内いたしますのよ」
一匹の人魚が、小首をかしげて、あでやかに笑いながら、話しかけた。
「海の底だって? ぼくは人間だから、海の底なんかへもぐれやしないよ」
影男は、岩の岸にしゃがんで、二匹の人魚をかたみがわりにながめながら答えた。
「いいえ、それはたやすいことでございます。わたくしたちも、海にもぐるときは、こういうものを使いますの。あなたさまにも、これを当ててさしあげますわ」
人魚たちは透明な仮面のようなものをさしあげて見せ、それを自分たちの美しい顔にかぶった。目、口、鼻、耳をおおい隠すすき通ったプラスチックらしい仮面であった。その仮面にはやはり透明で柔軟な細い管がついていて、その管の先に、これも透明な小型の酸素ボンベがついていた。人魚たちはそのボンベをわきの下にくくりつけた。
「お客さまも、これをおつけになれば、いくらでも水の底にもぐっていられますのよ」
二匹の人魚は、岩の岸にはいあがり、水ぎわに腰かけた形になって、透明仮面とボンベとを、かれの顔とわきの下につけてくれた。影男の殿村は、やさしい人魚たちのなすがままに任せた。
「さあ、わたくしたちがお手を引いてさしあげます。そして、海の底の不思議を見にまいりましょう」
両方から手をとられて、海中に身を浮かせた。少しも冷たくはなかった。人はだほどのなま暖かい水だ。それに、ぴったり身についた黒ビロードの衣類は、中にゴムでもはいっているのか、少しも水を通さなかった。首と、手首と、足首できゅっと締まっていて、そこから水がしみ入るようなことはなかった。
黒ビロードの人間の姿が、二匹の美しい人魚にはさまれて、海底へ沈んでいった。ともすれば浮き上がりそうになるからだを、両側の人魚が巧みに下へ下へと引きおろしてくれた。仮面の中へボンベの酸素が適度に漏れているらしく、少しも息苦しくはなかった。
見かけによらず、その辺の海の底は浅かった。底の岩とすれすれに、人魚たちはかれを導いていった。
行く手には巨大な海藻の林があった。幅一尺も二尺もあるコンブに似た植物が、巨獣のたてがみのように、無数にゆらいでいた。人魚たちは、そのぬるぬるした藻の林をかきわけて進んだ。
しばらく行くと、海藻がまばらになって、向こうの見通しがきくようになったが、そこは海底の谷間とでもいうような、深いくぼみになっていた。底のほうほど暗くなって、ぼんやりとしかわからなかったが、その青い水の層を通して、世にも異様なものがながめられた。
黒い斜面の岩はだに、いくつかの巨大な花が咲いていた。それはどんな植物の本でも、一度も見たことのないような、ぶきみにも美しい桃色の巨花であった。
だんだん近づくにつれて、その桃色の花は、いよいよ巨大に見えてきた。さしわたし四メートルもあろうかと思われる奇怪な五弁の花であった。
中心のシベに当たるところに、五つの美しい顔が笑っていた。その顔はみな、例の透明なビニールの仮面をつけていたことがあとになってわかったが、遠目には、透明仮面は少しもじゃまにならないで、あからさまな五つの美女の顔が、岩はだに密着していた。五人の全裸の美女は、そうして頭を寄せ合って、放射状に、長々と横たわっていた。彼女たちの胸から腹、そろえた二本の桃色の足が、それぞれ一枚の花弁となっていた。海底の人花であった。あるいは巨大な美しいヒトデであった。その人花は、谷間のもっと下のほうにも、二つほど咲いていた。それより底は、暗くて見えぬけれど、谷間のいたるところに、この巨大な人花が咲いているのではないかと想像された。
薄暗く青くよどんだ水底の、桃色の人花の美しさと恐ろしさは、比喩を絶するものがあった。それはデ・クィンジーのアヘンの夢であった。影男はどんな悪夢の中でも、これほど妖異な巨大な美を見たことがなかった。
黒ビロードの影男と二匹の人魚は、真上からその人花に向かって降下していった。そのとき、もっと別のギョッとするような巨大な長いものが、すぐ目の前を横切っていった。太さは二十センチに近く、長さは五メートルもあるニシキヘビであった。海中にこんな大きなヘビがすんでいるはずはない。いずれはこれも人工のものにちがいないのだが、美女の巨花を背景に、青黒い水中を、うろこをにぶい銀色に光らせて、ヘビがくねくねと身をよじらせながら横切っていく光景は、やはり胸おどる妖異であった。
ヘビがその上を通りすぎるとき、巨大な人花は、五対の桃色の足をキューッと上にあげ、腰のところで二つに折れるほど曲げて、花がつぼんだ形になった。ネムの木の葉がつぼむように、あるいは虫取りスミレがつぼむように、外部の刺激に反応したのである。それを上から見ると、十本の足の先が、五つの顔を隠して中心に集まり、五つのハート形のおしりが外輪となった桃色のつぼみの花であった。
ヘビが底のほうへ下っていくにつれて、そちらの人花も、同じつぼみの形になったが、やがて、ヘビが底深くやみの中へ姿を消すころには、つぼんだ人花が、もとのとおりに、パッと大きくひらくのであった。
影男は、二匹の人魚の手をはなれて、にこやかな五つの顔の花粉を慕う黒いミツバチの姿で、その人花の中心に向かってスーッと進んでいった。
透明マスクの五つの顔は、赤いくちびると白い歯で花のように笑っていた。だが、その笑いが獲物を毒手におとしいれる誘惑であった。かれが五つの顔に近づくと、美女たちの十本の腕がヒトデの足のように伸びて、黒ビロードのからだを、四方からがんじがらめに捕えてしまった。そして、五対の足がキューッとつぼんで、かれのからだを花弁の中に包みこんでしまった。巨大な桃色の虫取りスミレとなった。獲物を包むヒトデの姿となった。
虫取りスミレもヒトデも、毒液を出して、獲物を殺したうえ、吸収してしまうのだが、この人花は毒液を分泌するわけではなかった。獲物は身動きもできぬほど、桃色の肉団に包まれているばかりだ。影男の顔は、透明マスクを隔てて、五つの顔の一つに接していた。眼前三寸の近さに、赤いくちびるが白い歯で笑っていた。愛情にうるんだ大きな目が、じっとこちらを見つめていた。十本のはだかの腕は、かれのからだを抱きしめ、十本の桃色の太ももが、かれのからだを絞めつけていた。ムッとする暖かさであった。そして、かれは母の乳ぶさにうとうととまどろむ嬰児の心を味わっていた。
まもなく、かれは、つぼんだ人花の中で、真実の眠りについていた。人花の一つの手が、かれのわきの下のボンベのネジを動かした。そこに何か仕掛けがあって、かれのマスクの中に送られる気体の質が一変し、麻酔の作用をしたのであろう。かれは海底の人肉の花の中で、前後不覚に寝入ってしまった。
かれはそのあいだも、極彩色の甘美なアヘンの夢を見つづけていた。カレイドスコープがガラッ、ガラッと転回して、あらゆる原色の色彩がかれの脳髄をいっぱいにしていた。