むろん、背景の前には、ほんとうの水があります。しかし、それは小さな池にすぎないのです。一カ所だけ海底の谷間のような場所がこしらえてあって、そこに美人の花が咲いているのですが、そのほかは、ごく浅い池なのです。あの美人の花も、無数に咲いているように見えますけれども、ほんとうの人間の花は三つしかないのです。それより底のほうにぼんやり見えていましたのは、ビニールの作りものにすぎません。あの部分には、水の中に隠れた照明があります。その照明のくふうによって、谷を無限に深く見せ、無数の花が咲いているように見せかけてあるのです。
もう一つの美女ばかりでできた山脈も、同じパノラマの原理によるものです。あの円形空洞のさしわたしは、実は七、八間しかありません。ほんとうの女は、六十人にすぎないのです。あとはマネキン人形と、油絵です。その実物と絵との境めが、巧みにごまかしてありますので、数千、数万の女人の山脈に見えるわけです。すべてパノラマの幻術にすぎません……いかがでしょうか。こんなに種明かしをしてしまっては、せっかくの興がおさめになったのではございませんでしょうか」
ちょびひげの社長は、映画俳優アドルフ・マンジューを太らせたような顔に奇妙な微笑を浮かべて、長話を終わった。
「いや、興ざめどころですか。ますます感服しましたよ。ぼくは世間の表面に現われていない裏の秘密をいろいろ研究しているものですが、日本にあなたのような人がおられることは、少しも知りませんでした。地底のパノラマ国の王様というわけですね。いや、驚きました。夢を作り、夢を売るご商売ですね。この世で最もぜいたくなご商売ですね」
影男は真実に感嘆していた。この魅力あるちょびひげの男と親友になりたいものだと思っていた。
「ここをひらいてから、まだ半年にしかなりませんが、あなたさまが十六人めのお客さまでございます。ポンピキじいさんのことばを信用して、五十万円を投げ出すかたが、半年に十六人もあるというのは、わたくしにとっても驚異でございました」
「それにしても、二つのパノラマに百人に近い娘が働いているわけでしょうが、どういうふうにしてお集めになったのです。なみなみの給料では引きとめておくことはできないでしょうが」
「そこにまた、わたくしどもの秘密があるのです。あれらにはじゅうぶんうまいものを食わせ、好きなようにさせていますが、この地下からは一歩も外へ出ることを許しません。親兄弟とも絶縁です。給料も払いません。いわば牢獄にとじこめられているわけですが、不思議なもので、最初はいやがっていますけれど、だんだん慣れるにしたがって、これほど楽しい仕事はないように感じてくるのですね。親を捨て、恋人さえも捨てて、地下の住人になりきってしまうのです。もっとも、ここには何人かの若い男がおります。彼女たちを引きとめておくためのえさなのです。たくましく、美しく、あらゆる愛欲の技巧を会得した不良青年どもです。ひとりで彼女たち五、六人を、なかには十人以上をあやつっているものもあります。ですから、そういう青年は十五、六人でじゅうぶんです。この青年どもは、わたくしの命令には絶対に服従する子分なのです」
「すると、その青年たちが、手分けをして、地上の娘を誘拐してくるというわけですね」
「アハハハハ、その辺はご想像におまかせいたします」
ちょびひげ社長は、女のようなはにかみ笑いをしてみせた。
「最後に見た血の踊りの男役も、そういう青年のひとりなのですか」
「さようです。あれもなかなか美青年でございましょう」
「で、あのふたりは、ほんとうに血を流したのですか。これもパノラマ式の目くらましだったのですか」
「いや、ほんとうに血を流しました。深く切るわけではありませんから、命には別状はありませんが、あれだけの傷が癒えるのには相当の日数がいります。でも、あのふたりは、傷つけたり、傷つけられたりすることが、心から好きなのです。報酬によってやっているのではございません」
社長はそこでことばを切って、奇妙な微笑を浮かべて、影男の顔を見た。そして、少し声を低くして、さも一大事をうちあけるような口調になった。
「さて、さきほど、ちょっと申しあげました最もたいせつなご相談になるのですが、あなたさまは、この女と一日でもいいからいっしょになってみたいというような相手はおありになりませんか。あなたさまのお力で自由になる女ではいけません。非常に好きだけれども、どうしても手出しができないというような人です。大家の箱入り娘、がんこにはねつけているジャジャ馬女、あるいはご友人の奥さま、女社長、女学者、どんな地位の人でも、むずかしければむずかしいほどけっこうです。そういうおかたをひとり思い出していただきましょう。わたくしどもの秘密の手段によって、必ずここへ連れてまいります。そして、あなたさまのおぼしめしにかなうようにいたします」
影男はまたしてもどぎもをぬかれた。ちょびひげ社長の奥底の知れぬ悪党ぶりに驚嘆をあらたにした。
「なるほど、そこに五十万円のねうちがあるというわけですね。むろん、誘拐でしょうね」
「誘拐にはちがいありませんが、けっして手荒なことはいたしません。また、けっして人に気づかれる心配もありません。そこが、わたくしどもの秘密の技術なのです」
「つまり、恋人誘拐引き受け業ですか」
「さよう、恋人誘拐引き受け業でございます。殺人請負業よりはおだやかでもあり、いろっぽくもございますね」
ちょびひげ社長は短い足を組み、腕を組んで、その右手でパイプを口にささえながら、ニヤニヤと笑った。