松源の目見えと云うのは、末造が為めには一(いつ)の fte(フェエト) であった。一口に爪に火を点(とも)すなどとは云うが、金を溜(た)める人にはいろいろある。細かい所に気を附けて、塵紙(ちりがみ)を二つに切って置いて使ったり、用事を葉書で済ますために、顕微鏡がなくては読まれぬような字を書いたりするのは、どの人にも共通している性質だろうが、それを絶待的に自己の生活の全範囲に及ぼして、真に爪に火を点(とぼ)す人と、どこかに一つ穴を開けて、息を抜くようにしている人とがある。これまで小説に書かれたり、芝居に為組(しく)まれたりしている守銭奴は、殆ど絶待的な奴ばかりのようである。活(い)きた、金を溜める男には、実際そうでないのが多い。吝(けち)な癖に、女には目がないとか、不思議に食奢(くいおごり)だけはするとか云うのがそれである。前にもちょっと話したようであったが、末造は小綺麗な身なりをするのが道楽で、まだ大学の小使をしていた時なんぞは、休日になると、お定(さだ)まりの小倉の筒袖を脱ぎ棄てて、気の利いた商人(あきんど)らしい着物に着換えるのであった。そしてそれを一種の楽みにしていた。学生どもが稀(まれ)に唐桟ずくめの末造に邂逅(かいこう)して、びっくりすることのあったのは、こうしたわけである。そこで末造には、この外にこれと云う道楽がない。芸娼妓なんぞに掛かり合ったこともなければ、料理屋を飲んで歩いたこともない。蓮玉で蕎麦を食う位が既に奮発の一つになっていて、女房や子供は余程前まで、こう云う時連れて行って貰うことが出来なかった。それは女房の身なりを自分の支度に吊り合うようにはしていなかったからである。女房が何かねだると、末造はいつも「馬鹿を言うな、手前なんぞは己とは違う、己は附合があるから、為方なしにしているのだ」と云って撥(は)ね附けたのである。その後(のち)だいぶ金が子を生んでからは、末造も料理屋へ出這入(ではいり)することがあったが、これはおお勢の寄り合う時に限っていて、自分だけが客になって行くのではなかった。それがお玉に目見えをさせると云うことになって、ふいと晴がましい、solennel(ソランネル) な心持になって、目見えは松源にしようと云い出したのである。
さていよいよ目見えをさせようとなった時、避くべからざる問題が出来た。それはお玉さんの支度である。お玉さんのばかりなら好(い)いが、爺いさんの支度までして遣らなくてはならないことになった。これには中に立って口を利いた婆あさんも頗(すこぶ)る窮したが、爺いさんの云うことは娘が一も二もなく同意するので、それを強いて抑えようとすると、根本的に談判が破裂しないにも限らぬと云う状況になったから為方がない。爺いさんの申分はざっとこうであった。「お玉はわたしの大事な一人娘で、それも余所(よそ)の一人娘とは違って、わたしの身よりと云うものは、あれより外には一人もない。わたしは亡くなった女房一人をたよりにして、寂しい生涯を送ったものだが、その女房が三十を越しての初産(ういざん)でお玉を生んで置いて、とうとうそれが病附(やみつき)で亡くなった。貰乳(もらいちち)をして育てていると、やっと四月(よつき)ばかりになった時、江戸中に流行(はや)った麻疹(はしか)になって、お医者が見切ってしまったのを、わたしは商売も何も投遣(なげやり)にして介抱して、やっと命を取り留めた。世間は物騒な最中で、井伊様がお殺されなすってから二年目、生麦(なまむぎ)で西洋人が斬られたと云う年であった。それからと云うものは、店も何もなくしてしまったわたしが、何遍もいっその事死んでしまおうかと思ったのを、小さい手でわたしの胸をいじって、大きい目でわたしの顔を見て笑う、可哀(かわい)いお玉を一しょに殺す気になられないばっかりに、出来ない我慢をして一日々々と命を繋(つな)いでいた。お玉が生れた時、わたしはもう四十五(しじゅうご)で、お負(まけ)に苦労をし続けて年より更(ふ)けていたのだが、一人口は食えなくても二人口は食えるなどと云って、小金を持った後家さんの所へ、入壻(いりむこ)に世話をしよう、子供は里にでも遣ってしまえと、親切に云ってくれた人もあったが、わたしはお玉が可哀さに、そっけもなくことわった。それまでにして育てたお玉を、貧すれば鈍するとやら云うわけで、飛んだ不実な男の慰物(なぐさみもの)にせられたのが、悔やしくて悔やしくてならないのだ。為合(しあわ)せな事には、好い娘だと人も云って下さるあの子だから、どうか堅気な人に遣りたいと思っても、わたしと云う親があるので、誰も貰おうと云ってくれぬ。それでも囲物や妾には、どんな事があっても出すまいと思っていたが、堅い檀那だと、お前さん方が仰(おっし)ゃるから、お玉も来年は二十(はたち)になるし、余り薹(とう)の立たないうちに、どうかして遣りたさに、とうとうわたしは折れ合ったのだ。そうした大事なお玉を上げるのだから、是非わたしが一しょに出て、檀那にお目に掛からなくてはならぬ」と云うのである。
この話を持ち込まれた時、末造は自分の思わくの少し違って来たのを慊(あきたら)ず思った。それはお玉を松源へ連れて来て貰ったら、世話をする婆あさんをなるたけ早く帰してしまって、お玉と差向いになって楽もうと思ったあてがはずれそうになったからである。どうも父親が一しょに来るとなると、意外に晴がましい事になりそうである。末造自身も一種の晴がましい心持はしているが、それはこれまで抑え抑えて来た慾望の縛(いましめ)を解く第一歩を踏み出そうと云う、門出(かどで)のよろこびの意味で、tte--tte(テタテト) はそれには第一要件になっていた。ところがそこへ親父が出て来るとなると、その晴がましさの性質がまるで変って来る。婆あさんの話に聞けば、親子共物堅い人間で、最初は妾奉公は厭だと云って、二人一しょになってことわったのを、婆あさんが或る日娘を外へ呼んで、もう段々稼がれなくなるお父っさんに楽がさせたくはないかと云って、いろいろに説き勧めて、とうとう合点させて、その上で親父に納得させたと云うことである。それを聞いた時は、そんな優しい、おとなしい娘を手に入れることが出来るのかと心中窃(ひそ)かに喜んだのだが、それ程物堅い親子が揃(そろ)って来るとなると、松源での初対面はなんとなく壻が岳父(しゅうと)に見参(げんざん)すると云う風になりそうなので、その方角の変った晴がましさは、末造の熱した頭に一杓(いっしゃく)の冷水を浴せたのである。
しかし末造は飽くまで立派な実業家だと云う触込(ふれこみ)を実にしなくてはならぬと思っているので、先方へはおお様な処が見せたさに、とうとう二人の支度を引き受けた。それにはお玉を手に入れた上では、どうせ親父の身の上も棄てては置かれぬのだから、只後(あと)ですることが先になるに過ぎぬと云う諦(あきら)めも手伝って、末造に決心させたのである。
そこで当前(あたりまえ)なら支度料幾らと云って、纏(まと)まった金を先方へ渡すのであるが、末造はそうはしない。身なりを立派にする道楽のある末造は、自分だけの為立物(したてもの)をさせる家があるので、そこへ事情を打ち明けて、似附かわしい二人の衣類を誂(あつら)えた。只寸法だけを世話を頼んだ婆あさんの手でお玉さんに問わせたのである。気の毒な事には、この油断のない、吝(けち)な末造の処置を、お玉親子は大そう善意に解釈して、現金を手に渡されぬのを、自分達が尊敬せられているからだと思った。