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おみそれ社会

时间: 2017-12-30    进入日语论坛
核心提示:「いつものように、ちょっと出かけてくる」 おかわりをした二杯目のコーヒーを飲みおわり、私は立ちあがりながら言った。このま
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「いつものように、ちょっと出かけてくる」
 おかわりをした二杯目のコーヒーを飲みおわり、私は立ちあがりながら言った。このままコーヒーを飲みつづけ、テレビをながめて家でごろごろしていてもいいんだが、三十五歳の男性ともなると、そういう生活態度はよろしくない。男とうまれたからには、たえず忙しげに動きまわっていなければならぬ。それが世の通念。それに反するのはよろしくないのだ。
「いってらっしゃいませ。お気をつけて」
 わが奥方の美佐子が言った。奥方だなんて現代の通念に反する言葉を使うのはどうかと思うが、私の場合はやむをえない。彼女は高級美容院を経営し、盛業中なのだ。世の女性たちは必需品の値上げだと一円でも大さわぎをするが、美容代のごとき非必需品には千金を投じても平然たるもの。けっこうなことだ。ここはその美容院の二階の住居。住みごこちのいいマイホームとなっている。
 わが奥方の美点はもうひとつある。どこへいらっしゃるの、なにしにいらっしゃるのなどと、くどくど質問しないことだ。金をかせぎながら亭主には寛大。いまどき珍しい良妻じゃないかしらん。
 しかし、時には私も考えるのだが、美佐子は独身でいるとあれこれと変なうわさが立ってみっともないので、私と結婚したのじゃないだろうか。女は適齢期になったら結婚すべきだというのが世の通念。といって、平凡な男と結婚すると一日じゅう二階でごろころされ、ひまを持てあまして階下の店にあらわれ、従業員の女の子をからかい、お客のご婦人たちになれなれしく笑いかけたりで、これまた困る。だから、私が午後から夜にかけてどこへともなく出かけるのを、内心では喜んでいるのかもしれない。
 つまり、私たちは理想的な夫婦ということになる。お客のご婦人におべっかを言うのもつまらないことではないだろうが、私にはもっとやりがいのあることがべつにあるのだ。
 
 ネクタイをしめ、きちんと服を着て私は外出する。国電の駅にむかい、ホームで電車を待つ。三台ほど待った。すいた電車には乗りたくないのだ。しかし、痴漢趣味と思われては困る。そんな低級なことを私がするものか。
 やっとこんだ電車が来た。いそいそと乗りこんだ私は、そっとあたりを見まわし、身なりのいい五十歳ちかい紳士がいるのを見つけそのそばへすり寄った。しかし、私は同性愛趣味の痴漢などではない。そんな低俗なことを私がするものか。
 さっさっさっと、私は作業をやり終えた。われながらすばらしい手ぎわ。神技とはこういうもののことではないだろうか。しかし、きょうの相手は神経がとくに鋭敏だったのか感づかれてしまった。彼は私の手首をつかんで大声をあげやがった。
「スリだな。どうもようすがおかしいと思ったら、スリだったのだな。さあ、つかまえたぞ」
「まあまあ、大声をあげないで下さい。他の乗客のかたがたへの迷惑となります。それに、このごろは大声をあげても、かかりあいを恐れてだれも知らん顔です。力を貸してくれませんよ。ひどい世の中です。したがって大声は無意味でしょう」
 と私が言うと、紳士はうなずいた。
「それもそうだな。では、車内ではおとなしくしてやるか……」
 しかし、まもなく駅につくと、私はホームへ引っぱり出され、会話が再開された。紳士は言う。
「やい、スリめ。ひとの物をするとは、許しがたき犯罪だ。税金をおさめないでもうけるやつを見ると、胸がむかむかする。さあ、かえせ。いやだといったら、駅の公安官に引き渡し、はだかにして調べて……」
「待って下さいよ。話を最初にもどしましょう。なにがすられたとおっしゃるのです。あなたのポケットからなくなった品というのは、なんなのですか」
 こう私が聞くと、相手は服のポケットをすべてあらためてから、困ったような口調で言った。
「なにもなくなっておらん」
「そう早がってんしないで、よくお調べになったらいかがです。念には念を入れよということもありますからね。財布や名刺入れはどうですか。キー・ホルダーはどうですか」
「みんなある。ふしぎでならんな。たしかにすられたような感じがしたのだが。しかし、いずれにせよ、きみには申しわけのないことをした。わたしのまちがいを許してもらいたい。わたしは芝原といいます」
 あやまろうとしてホームにすわりこみかけた紳士を、私は引きおこした。
「そんなことをなさらなくてけっこうですよ。まちがいはだれにもあることです。まちがえるたびに土下座していたら、人間すべて土下座のしつづけです」
「ああ、なんという高潔なかただ。ひとのまちがいを深追いしない。週刊誌や野党の代議士たちに、あなたのような人の存在を教えてやりたいと思います。しかし、このままではわたしの気持ちがすまぬ。行きつけのバーがあるから、そこでおごらせていただきたい。この駅から歩いて十分ほどです」
「そうこなくちゃいけない。いや、それはけっこうなことです。そのご好意はありがたくお受けしましょう」
 先に立つ芝原のあとを歩きながら、私は自分のポケットからフィルムを出して、そっとながめた。私のポケットのなかには、高性能の小型複写器がある。さっきこの紳士の紙入れをすり、なかの書類を複写器にかけ、ふたたび紙入れに入れてもとに戻したというわけなのだ。神技と称してもいいのではないかというのは、このことだ。物品をするのではなく、情報をすりとる。もっとも、めぼしい情報にめぐりあうことは、めったにない。今回もどうやらそうだったようだ。
 複写したフィルムによると、この芝原という紳士は医者らしかった。紙入れをポケットに戻す時、聴診器にもさわった。私がうなずきながらフィルムをしまうと、駅の出口のあたりで苦しげなうめき声がし、人垣ができていた。背のびしてのぞきこむと、老人が倒れている。急病人らしい。私は芝原に言った。
「あそこに急病人がいるようですよ」
「ふうん」
「手を貸してあげたらどうでしょう」
「しろうとが勝手に手を出さないほうがいい。事態の悪化という現象は、すべてよけいなおせっかいからおこる。ほっときなさい。だれかがなんとかするさ」
 と平然たるもの。ヒューマニズムの欠けていること、おびただしい。といって、ここで忠告したりすれば、私の行為がばれてしまう。不満顔をしている私を引っぱり、芝原は駅前広場の片すみを指さした。
「急病人なんかより、もっと興味ある人物がそこにいる」
 そこには乞食がいた。あかにまみれ、ひげが伸び、地面にすわっている。
「ははあ、乞食ですな。二十歳前後の若者だったら趣味の乞食といえますが、あいつは四十歳ちかい年配。真剣な表情。本物の乞食のようです。しかし、なんで興味が……」
「五体満足、頭も悪くなさそうだ。そんなやつが、この繁栄の世になぜ乞食などをしているのか、ふしぎでならぬ。もっとも、スリだって存在しているのだからな。いや、これは失礼。きみのことではないよ」
 そこで私は、ひとつの仮説をのべた。
「どこかのテレビ局にやとわれているタレントかもしれませんよ。ドキュメンタリー番組のためには、かわいそうな貧しい人物が必要なんです。視聴者というものは、うまい物を食べながらテレビでかわいそうな光景を見るのが好きなんですよ。優越感なるものは、いまや立派な商品ですからね。それに、娯楽番組にも利用できる。かわいそうな人たちへの寄金募集と銘をうてば、どんな俗悪な公開ショーも大手を振ってできる。あれやこれやで需要あれば供給ありです」
「そういうものかね」
「観光や視察にやってくる外人むけにも、乞食は必要なんです。アメリカ人は日本にも社会のひずみがあることを知ってほっとする。共産圏からの旅行者は、資本主義の犠牲者を発見し、いいみやげ話ができたと大喜びする。低開発国の経済使節団が見れば、日本に大きな援助要求をするのは遠慮しようと内心で考える。すべて好結果。あれは外務省直属の乞食かもしれません」
「どうもきみはすなおじゃないな。まあ、もうしばらく見ていなさい。ほら、来た来た。むこうから男が歩いてきた……」
 と芝原が指さす。歩いてきた男はみすぼらしい服装。しかし、乞食の前で足をとめ、前においてある|空《あき》|缶《かん》[#電子文庫化時コメント 底本「空罐」]のなかに千円札を投げこんだ。乞食は涙を流してふしおがみ、ご恩は一生わすれませんと言っている。芝原は私に、その点を指摘した。
「どうだ、心からの感謝をしているではないか。あの報恩の念は、道徳の訓読本にのせたいくらいだ。かくしカメラでとられているやとわれタレントだったら、ああはいかない。毎日ああなのだ。それに、あの金を恵む人物。自分のぜいたくを押えて、金を与えつづけている。道義いまだすたれず。あれこそ市民の連帯意識のあらわれだ。きみはひねくれているぞ。ヒューマニズムに欠けている」
 ヒューマニズムに欠けていると言われては、私としても面白くない。
「ちょっとここで待っていて下さい。あいつたちの正体を調べてきます」
 私は金を恵んだ男のあとをつけ、そばへ寄って、さっさっさっと神技を発揮した。スリを働き、複写し、もとへ戻したというわけだ。それから乞食のそばで滑ったふりをして倒れかかり、また神技を発揮した。待っている芝原のところへ帰って報告。
「わかりましたよ。いささか驚きでした。まったく、人生はさまざまです。意外や意外という事情。こんなところでの立ち話にはもったいない。話すほうも聞くほうも、一杯のみながらのほうが楽しくなるといったたぐいのものです」
 
 バーのマダムは若く美しく、なかなか魅力的だった。なまめかしい声で迎えてくれた。奥のほうの椅子にかけ、芝原は私に言った。
「気楽にしてどんどん飲んでくれ。しかし、気楽にしすぎ、マダムに手を出されては困る。なぜなら、彼女はわたしのこれだからだ」
 芝原は小指を一本立ててみせた。
「それはそれは、すばらしいことで。ぜひうかがいたいものですな、そのロマンスの発生から経過、現在に至るまでを」
「そのことはあとまわし。さっきの乞食の話のほうが先だ。ロマンスなど、もはや平凡。現代は情報の時代。他人の知らぬ珍奇にして新しい情報に接する以上に楽しいことはない。さあ、早く話してくれ」
 うながされ、私は酒を飲みながら話す。
「じつはですね、あの乞食、ただの乞食じゃありません。このあいだニュースをにぎわしたでしょう、空港の税関の事件。大量の宝石を強奪し、逃走したやつがありました。それがあいつなんです」
「それがなぜ乞食などになった。天罰がくだされたのかな」
「そうではありません。つまりですな、彼は全財産をつぎこんで犯行に|賭《か》けたのです。みごとに成功はしたものの、すぐに宝石を処分しては、それから足がついて発覚する。発覚しなくても、買いたたかれてみすみす大損害。その一方、現金はまるでない。乞食をする以外に、生きる道はなくなったというわけです」
 私の説明に、芝原はひざをたたいた。
「なるほど、黒字倒産というわけか。やはりあいつも繁栄のかげの犠牲者の一種だったのだな。で、金をめぐんでいた身なりの地味な慈善家のほうはどうなんだ」
「あれがまた、ただの慈善家じゃないんですよ。乞食のその正体をうすうす感づいているらしい。ここで恩を売っておき、あとでごそっと分け前にあずかろうという計画です。苦境の時の、人の情ほど身にしみるものはありませんからねえ。宝石が現金化されたのをみはからって、さりげなくあらわれご対面すればいいんです。何倍にもなってかえってきますよ。融資してくれといえば、いくらでも出してくれましょう。名案です。しかし、あの男、恵んでやる金がない。そこで質屋にかよって金を作り、毎日あの乞食に与えているのです」
「えらいことを考え出したものだな。義理人情でしばりあげる長期投資というわけか。収益確実、競馬や宝くじで|一《いっ》|攫《かく》千金をねらう連中より、はるかに賢明だ。しからば、わたしも金を恵んでおくとするかな。この有利なる乞食信託に一枚加えてもらうとしよう」
 そんな気になりかかった芝原を、私はとめた。
「およしなさい。あのぼろ服の男、物かげでずっと見張っていましたよ。もしあなたが大金を恵んだりしたら、いんねんをつけに出てくるでしょう。やい、この乞食はおれのなわ張りだ。ほかのやつが勝手に金を恵むことは許さない。金がありあまって、どうしてもやらずにいられないのなら、おれを通じてにしろ、といったぐあいにね……」
「そういうものかもしれないな。うむ、アイデアの横取りはよくない。発見者の権利は尊重すべきである。しかしだね、それにしてもふしぎでならぬ。彼らのそういった秘密を、きみはどうやって聞き出したんだ。催眠術をかけてしゃべらせたというわけでもあるまい……」
 芝原は酒を飲み、首をかしげ、私を見つめた。これを質問されると困るんだな。ちょっと神技を発揮し、宝石強盗計画書や質札のたぐいを複写し、それらから判断したのだとも言えないし……。
「じつは、そのですね……」
 と私が弱っていると、その時だ。バーのドアから、バーにふさわしからぬお客が入ってきた。ふとった中年の婦人で、眼鏡をかけ、地味だがいかにも高価そうな和服を着ている。つまり主婦の典型といったところ。
 それをすばやく目にとめた芝原は、あわててテーブルの下にもぐりこみながら、小声で私に言った。
「まずいことになりかけてきた。きみはそしらぬ顔で飲みつづけていてくれ。わしがここにいるとさとられぬようにな」
 こっちだってやぼではない。事情をのみこみ、かたわらの店の女の子相手に、冗談をしゃべり芝原に協力してやった。しかし、なぜ男性同士はこんな時に助けあってしまうんだろう。「奥さん、おさがしものはこれでしょう」と大声で教えてあげるのも、ちょっとした刺激だと思うんだがな。社会的な常識というやつなのかもしれない。それとなくようすをうかがっていると、入ってきた中年の婦人は、ざあます言葉を連発してマダムをやっつけている。しかし、それをマダムはたくみにあしらい、なんとか帰らせることに成功した。
「もう大丈夫のようですよ」
 と私が告げると、芝原はテーブルの下からのそのそ出てきて椅子にかけ、ほっとした表情で酒を飲んた。
「やれやれ、ぶじにすんでほっとした。お手伝いありがとう」
「さぞびくびくなさったでしょう。本妻と二号との対決に立ち合うぐらい、男にとって精神衛生によくないものはないでしょうからね。お気持ちはよくわかりますよ。しかし、奥さんのほう、わりと簡単に引きあげていきましたねえ」
「なにいってんだい。お気持ちはよくわかりますなんて言ってるが、きみはちっともわかっちゃいない。帰っていったほうが二号なんだ」
 この芝原の言葉に、私は自分の耳を疑いたくなった。
「まさか。それじゃ常識に反しますよ。本当にそうだとしたら、あなた気まぐれもいいところだ。気はたしかなんですか。一度お医者さんに見てもらったらいい」
「そう独断的な意見を振りまわさないでくれ。これには事情があるのだ。いいかね、わたしはずっと独身で仕事第一と専心してきた。そのかいあって、中年すぎになってからすべてが軌道にのり、財産もでき、地位もできた。そこで、若い美人と結婚することができた。ここまでの経過はおわかりか。ご質問があればお答えします」
「ええ、わかりますよ。男なら若い女性と結婚したくなるのは当然です。しかし、あなたの場合は正々堂々たるものじゃありませんか。なんら恥ずることはない」
「ところが、そううまくはいかないのが世の中。妻と外出すると、だれもが二号といっしょだと思ってしまう。明るいうちから二号を連れて歩きやがってと、批難の視線が集中する。商売がたきたちは、あいつは二号を囲っているとほうぼうで言いふらす。わたしの社会的な信用は落ちる……」
「ははあ」
「体験してみないとわからないだろうが、いや男性の|嫉《しっ》|妬《と》というものはひどいものだ。陰にこもったでたらめの中傷。男性とは本質的に女性じゃないかと思えてくるぜ。さらに、思いがけない問題も派生してくる。わたしの留守中に、近所の若い男が妻に言い寄ったりするのだ。二号に手を出すことには道徳的抵抗がなく、気やすくできるらしい。といったありさまなのだ。こっちは恥ずるところなくても、世の常識にはさからえぬ」
 芝原は世人の無理解をなげいた。私もいささか同情する。
「そういうものかもしれませんね」
「あれこれ悩んだあげく、かくのごとくなったしだいだ。さっきのばあさんを二号にした。公式の会合にはそれを連れてゆく。悪評は消え、|糟《そう》|糠《こう》の妻を大事にしていると、みな尊敬の目で見てくれる。業界の信用も高まる。いいことずくめだ。さて、本妻のほうはどうしたものかとの問題が残る。わたしも考え、本人とも相談したあげく、ここでバーをやらせることになったというわけだ。バーのマダムにしておくと、若い男は気やすく手を出さない。ぶっそうなパトロンがついているかもしれないと、びくびくしちゃうんだな」
「複雑なもんですなあ」
 と私はここのマダムを横目でながめ、ため息をついた。
「そうかね。単純な常識に従い、むりにさからわないだけのことさ。人生の知恵というわけだよ」
「疑問がひとつあります。さっきの一見本妻風の二号さんが、なぜ、ここの一見二号風の本妻のところへどなりこんできたんです。二号が本妻のところへどなりこむなんて、越権行為、常識に反してますよ」
 それに対し、芝原は理性的分析的な口調になりながらしゃべった。
「それが女のあさはかなところなんだろうな。服装が人を作るということわざがある。いつのまにか本妻風の生活になれ、自分の本質がそうなのだと思いこみ、前後を忘れてここへ乗りこんでくるのだ。しかし、ここのマダムにさとされ、自分は日かげ者であったことに気がつく。そして、すごすごと帰ってゆくことになるのだ。これが時どきくりかえされている」
「ははあ」
「すなわち、自己の社会的立場を確認する行為。たとえば、街路で大あばれをしてみて、警官が手かげんをしてくれ、やはりおれは暴力団でなく学生だったのだとうなずくようなものだ。社会が複雑になると迷路に入りこんでさまよっているよう、自分がどんな地点にいるのかわからなくなる。そのため、確認行為は現代に必要なんだ。自動車事故をおこしてみて罪が軽ければ、自分はまだ人気のあるタレントだと確認できる。大通りで立小便をしてみて警官に怒られれば、自分はもう子供じゃなくなったんだとわかる。もっと例をあげようか」
「もうけっこうです。わかってきました。ここのマダムも本妻風の二号さんを追いかえすことで、自分が正式の夫人であると確認でき、誇りと安心が得られるというわけですな。しかし、そういう一種の行事なら、あなた、なにもあわててかくれなくったっていいじゃありませんか」
「それはきみ、世の常識というものだよ。わたしがそばにぼそっと立っていては、かっこうがつかない。また、彼女たちだって確認行為を楽しめない。わたしもかくれることで、二人の女性に愛されていることがはっきりし、楽しめるというわけだ。きみにしてもだ、スリルを味わって楽しめたはずだぜ」
「こみいってますなあ。もう少し酒でも飲まないことには……」
 店の女の子が酒を運んできた。となりの席にすわったその女の子に、私は酒を飲みながらつぶやくように言う。
「世の中は複雑だなあ。総合雑誌のむずかしそうな論文に、よく二重構造という言葉がのっているが、このことだったのかもしれないな。一枚はぐと下からなにが出てくるのか、さっぱりわからん。信じられるたしかなことといえば、きみがかわいこちゃんであることぐらいじゃないかな」
 そのとたん、彼女が声を出した。
「おい、おっさん。てめえの目はふし穴じゃないのか。みそこなっちゃ困るぜ……」
 すごみのある早口の低い声だ。私はびっくりした。男だったのか。どういうわけか知らないが、女装した男性というものは勢いのいいたんかを切りたがる。
「すまん、おみそれした」
 私があやまると、彼女はふたたびやさしい声にもどって言った。
「だからあなたの目はふし穴なのよ。超小型テープレコーダーができてるのをごぞんじないようね。服のなかにかくしてあるの。いやな男にしつっこくくどかれた時、そっとボタンを押すと、いまの声が再生されるってわけよ。効果はてきめんね」
「そういう製品が開発されているとは知らなかった。きもをつぶしたよ。ちょっと見せてくれないか」
「だめよ、あいにくきょうは持ってこなかったの」
 女は謎めいた笑いをした。二重構造どころのさわぎではない。
 
 酒を飲んでいるうちにいい気分になり、私は芝原に、ついこう話しかけてしまった。
「病院の経営をなさりながら、事業をやっておいでとは、さぞ大変でしょうね」
「まあね……」
「しかし、あなたにひとつ文句がありますよ。さっき駅で急病人をほったらかしにした。あれは許せない。反省なさるべきです」
 芝原は妙な顔で考えこみ、やがて言った。
「どうやら反省すべきなのは、きみのほうらしいぞ。わたしは医者ではない。さっきからわたしが医者だなど、ひとことも言っていない。ということは、紙入れのなかの名刺をきみがすったことになる。やはりスリだったのだな」
「これは口がすべりました」
 いまさらしまったと思っても、もはや手おくれ。芝原の声は大きくなった。
「名刺一枚であろうと、スリはスリだ。すっかりだまされていた。わたしは正しかったのだ。がまんしていた損害をとりかえすため、大声でさわぐぞ」
「まあ、待って下さい。名刺だってとっていません。複写させてもらっただけです」
「似たようなものだ。かえしたからといってすむことではないぞ。さて、どうしてくれよう」
「お静かに、お静かに、あなたのにせ医者であることが表ざたになってしまいますよ。それでは困るでしょう」
 弱味をついたつもりだったが、相手にはあまりひびかなかった。
「いや、わたしは医師法違反などしていない。バーや待合で女性にあの名刺を見せるだけだ。聴診器を出すと、女の子は安心して裸になってくれる。それを見物して楽しむだけだ。子供のお医者さんごっこと同じようなもの。実質的な被害を与えているわけじゃないよ」
「それだったら、わたしがあなたの名刺を複写したことだって同じでしょう。あなたに実質的な被害を与えていない」
 あれこれ議論を重ね、私はいろいろと弁解をこころみた。やがて、芝原もいくらか譲歩してくれた。
「それもそうだな、おたがいに帳消しとしてもいい。しかしだ、ここでずいぶん酒を飲まれた。安くないぞ。おごるべきでなかったものだ。これは実質的な被害」
「駅前の乞食についての情報をお教えし、楽しませてあげたじゃありませんか」
「こっちも二号の話をし、楽しませてあげた。だから、その件は帳消し。飲み代だけが残る。このぶんだけ、わたしはきみに対して恐喝権を有することになる。これが世の常識というものだ」
「弱りましたが、いいでしょう。どういうことになるのです」
「きみに手伝ってもらいたいことがあるのだ。すぐすむ」
「仕方ありません。やりますよ、やりますよ。これもなにかの経験です」
 私が承知すると、芝原は私の耳に口を寄せてささやいた。
「じつは、これから倉庫に忍びこみ、泥棒を働くのだ」
「えっ、なんですって……」
「大きな声をたてるな。これは密談なんたぞ。ひとにむかってはお静かにをくりかえすくせに、自分では……」
「わかりましたよ。あなたの本業がそんなこととは知らなかった。いまさら後悔してもまにあわない。で、どうやるんです」
「くわしくは奥の小部屋で相談しよう」
 バーの奥のほう、ドアを入ると小さな部屋があった。芝原は紙に図を書き、手はずを説明した。前から準備していたらしく、計画は的確だった。
「きみの受持ちはガードマンをやっつけることだ。倉庫の鍵をあけるのはわたしがやる」
「大丈夫なんでしょうね。変なことになって裁判にかけられたりするのはいやですよ」
「そんなに心配なら、念のために証言屋をやとっておこう。バーのカウンターのはじのほうで飲んでいた男がいたろう。あいつがそれだ」
「そういえば、変なのがいましたね。酔っぱらっているのか、酔っぱらってないのかわからないようなのが……」
「そう、あいつのことだ。ある人から推薦された。証言屋としての才能はたしかだから、なにかの時に使ってやってくれとな。いかなる自白剤を飲まされ、いかなるうそ発見機にかけられても、なんの反応も示さないという特異体質の持ち主らしい。やつをこの小部屋に呼び、ずっといっしょに飲んでいたということにしてもらおう。証言屋と称するからには、声色だってうまいのだろう。三種の声を使いわけ、そとの連中に対して、ここで三人がしゃべりあっていたようによそおってくれるだろう」
「そんな商売があるとは知りませんでした。彼の本職はなんなんです。信用できるんですか」
「本職がなにかは知らない。しかし、人は本職はいいかげんにやっても、内職となると誠心誠意、忠実にやるものだ。内職には終身雇用年功序列なんて保証はないからな。内職をいいかげんにやり、本職のほうに熱中するというタイプの人間を聞いたことがあるか」
「ありませんね」
 というわけで、あとを証言屋にまかせ、私たちはバーの小部屋の窓からそとへ出た。芝原は案内し、倉庫の所在地へと行きついた。
 物かげからのぞくと、なるほどガードマンが巡回している。あれをやっつけるのが私の分担。正攻法でやることにしよう。私は近づいて「こんばんは」と声をかけ、すきをねらって力一杯みぞおちを突いた。
「う、痛い」
 声をあげたのは私のほうだった。こっちの手がしびれるぐらい痛かった。どうやら、相手は防弾チョッキを着ていたらしい。やりそこなった。こうとは予想せず、第二撃のことは考えていなかった。観念せざるをえないようだ。反対につかまってしまうだろう。
 私は覚悟をし、それを待った。しかし、ガードマンはそこにぼんやりと立ったまま、こうつぶやいている。
「おれはなぜ、こんなところにいるのだろう。早く帰らなければならぬ。だが、家がどこだったのか思い出せない。第一、自分の名前も忘れてしまった。あなた、教えてくれませんか」
 うつろな目つきで、しばらくゆらゆらと揺れていたが、やがてばったりと倒れ、動かなくなった。これはどういうことなのだ。さっぱりわからない。私がふしぎがっていると、芝原がやってきて言った。
「きみはすごい。一撃で倒したな」
「結果としてはそういう形になっていますが、どうもおかしいのです。このガードマン、記憶喪失になったようなのです」
「頭でもなぐったのか」
「いや、みぞおちを突いたのです。しかし、こいつは防弾チョッキをつけていて、痛かったのはわたしのほうです。いったい、こんなことってありますか」
「なるほど、変な現象だ。倉庫侵入の前に調べてみる価値がありそうだ。好奇心は金銭欲よりも強い」
 ガードマンのポケットをさぐると、書類が出てきた。特殊護身術訓練所の修了証書。しかし、こんなざまで、なにが護身術だ。
 証書の裏にはこまかい字でいろいろと書いてあった。それを読むと、だんだん事情がわかってきた。ちょっとした衝撃を他人から受けると、記憶喪失のごとき外見を示し、ばったりと倒れて気絶する。その術を身につけたということなのだ。
 すなわち、それ以上の被害を受けることがない。犯人だって、記憶喪失の人間を殺しはしない。無抵抗こそ最大の防御。しかも、気の毒な被害者として、関係者からは同情される。訓練を重ねれば、条件反射として身につき、正確に気絶できる。ひとに襲われる危険性のある職業の人は、ぜひこの術の習得を。職務のために命を捨てるぐらいばかげたことはない。この特殊護身術で平穏と長生きをどうぞ。
「いや、ひどいもんですな。無抵抗主義者のガードマンとは」
 私が感心すると、芝原もうなずく。
「けしからんことではあるが、うまいことを考え出しやがった。気絶してしまえば、責任を問われることもないものな。なんとか他人をだしぬいて、自己の利益と安泰をはかろうとの欲求が世にみちている。それを利用し、こんな訓練所を作ってもうけるやつが出る。人間の頭脳はつきることのない泉。かくして文明は進歩してゆくのだな」
「ゆっくりと感慨にひたっている時じゃありませんよ。早いところ目的の仕事を片づけましょう」
「そうだったな」
 芝原は倉庫の扉に近づき、鍵をがちゃがちゃいじりまわした。すると、扉はあっけないほど簡単に開いた。芝原は慨嘆する。
「これは驚いた。鍵のかけかたがいいかげんだ。警報ベルも鳴らないとくる。なんというルーズなこと。装置の欠陥というべきか、点検の怠慢というべきか。あまりにもひどすぎる。きみの意見はどうだ」
「さあね、わたしは社会評論家じゃありませんよ。いまは悪事の手伝い役です。さっそくなかへ入ってみましょう」
 ともどもなかに入る。なにを持ち出すことになるのだろう。芝原は懐中電灯であたりを照らしている。私はその命令を待った。
 そのとたん、うしろで扉が閉まった。あわてて飛びつき、二人がかりで押したり引いたりしたが、さびかけている錠はびくともしない。やけをおこして勢いよくたたくと、非常ベルが鳴り出しやがった。芝原は言う。
「どうやら、もうだめらしいぞ。装置の欠陥と点検の怠慢との競合脱線で、われわれはここへとじこめられた形になった」
「冗談じゃありませんよ。ひどいことになった。ああ、せっかく証言屋までやとい、万全の計画だったというのに。想像が悪いほうへとむかいます。あの証言屋、かえって悪い結果をもたらすんじゃないんですか。このままだと、われわれは買収して証人を作ろうとした罪までかぶってしまう」
「いや、待てよ。いま思い出したが、あの証言屋は酒乱だそうだ。その点に気をつけて使えと推薦者から注意されていた。ウィスキーのびんをそばにおいてきたから、われわれの帰るのがおそければ、大あばれしてめちゃくちゃになっているだろう」
「そうだといいですね。やつが大酒を飲んでいるよう祈るとしましょう。いまとなっては、それぐらいしかできることはない」
「祈るのは待て。酒乱は酒乱でも、どんなたぐいかわからないぞ。酒がきれるとあばれだす酒乱かもしれない。それだったら酒を飲まないよう祈らなければならない。いずれにせよ、こんどやつを使う時には、その点をよくたしかめてからにしよう」
「そんなのんきなことを言っていて、どうするんです。ベルが、大きな音をたてています。いまにパトカーがやってくるでしょう。つかまってしまうんですよ。あなたの人生はそれで終りでしょう」
 と私がせきたてたにもかかわらず、芝原は意外に平然たる顔。
「まあ、落着きなさい。じたばたすることない」
「よくまあ、そんなことが言えますね。われわれはこのままだと、現行犯でつかまってしまいますよ。事態がわかっているんですか。わかっていながら平然としているのなら、あなたは大変な大人物か、ばかか、それとも……」
「もうひとつ、正解なさったら賞金をさしあげます」
「ええと、そうだ、この倉庫会社の社長」
「残念でした。いいところまではいったんですがね。わたしは防犯状況秘密調査うけおい会社を経営しているのです。各企業の防犯設備は、たいてい自己満足におちいっています。へたな将棋さしや碁打ちのようなものです。敵がこうきたら、こう受ければ安心というぐあいにね。しかし、それでは強い敵があらわれたらひとたまりもない。たまにはわたしのような情容赦のない専門家の教えをこわなければだめなのです」
 芝原の説明で、私はいくらかほっとした。
「これまた初耳のお仕事ですね。どんなふうに運営なさっているのですか」
「大会社をまわり、社長から内密に注文を受ける。社内に知らせては意味がありませんからね。何日の何時に防犯状況点検のための泥棒が入ると掲示しては、なんの役にも立たない。抜き打ち検査です。ごらんの通り、おかげでガードマンのだらしなさが判明したでしょう。また鍵と防犯ベルの不備もわかった。しかし、鍵とベルのうすのろさは面白い。これを改良すれば、侵入者をいけどりにする新設備が開発できそうだ。量産すればひともうけできるかもしれない」
「そうだったのですか。わけがわかってやっと安心しました。それならそうと、先におっしゃって下さればいいのに。わたしもつまらない緊張をしなくてすんだでしょう」
「それでは真に迫らないさ。きみだって手を抜いただろう。ぶつぶつ言いなさんな。はらはらして楽しかったろう。テレビなんかより、ずっと面白かったはずだ。お礼を言ってもらいたいくらいだぜ」
 やがてパトカーが到着し、私たちは倉庫のそとへ出ることができた。芝原は警官に事情を話す。警官はふしぎがりながらも、倉庫会社の社長宅へ電話をした。たしかに侵入を依頼したとの返事をたしかめ、あっけなく幕となった。
 しかし、その時、倒れていたさっきのガードマンが起きあがり、私を指さして大声で叫びはじめた。
「あいつです。さっきわたしをなぐったのはあいつです。つかまえて下さい。暴行傷害の凶悪犯人です」
 こんな時になって、大声でわめきたてる。なにいってやがる。ひどい目にあったのはこっちのほうだ。
 しかし、こう訴えがあっては見のがしてくれない。いちおう取調べるというわけで、私は警察に連行されることになった。芝原は口をきいてあげると言ってくれたが、私は自分のことは自分でしますとことわった。
 
 警察の取調べ室。担当の警官はいやに熱心だった。まだ若いのに核心をつくような質問を連発し、メモを取り、いいかげんなところが少しもない。礼儀正しく頭もよさそう。こんなに職務に忠実な優秀な警官は少ないんじゃないだろうか。模範的とはこういう人物のことだ。
 どんな経歴の人かと好奇心がおこり、私は便所に立った時に神技を発揮し、警官のポケットのなかのものを複写した。フィルムをそっとのぞき、私はきもをつぶした。ある犯罪組織の身分証明書があったのだ。たまりかねて私は質問する。
「いったい、あなたは警官なんですか、ギャング団の一員なのですか。どっちです」
「なんでそれを見抜いたのです。あなたは油断のならない人だな。じつは、ぼくのおやじがギャング団のボス。しかし、いやに進歩的な考えの持主でねえ。あとつぎになる前に、他人のめしを食って苦労してこいと、ぼくを警官にしたんです。警察へ留学させられたような形ですね。警察にいれば、あらゆる犯罪者の実体がわかる。また、犯罪取締りの内幕がわかる。コンピューターのしくみも頭に入る。おやじの立派なあととりになれるわけです。情報時代の未来に生きるには、こうでなくてはだめでしょう」
 あまりのことに、私は言う。
「いくらなんでもこれはひどい。ひどすぎる」
「そんなことありませんよ。ぼくは熱心に職務にはげんでいる模範警官です。おやじがかげで手伝ってくれるから、犯人もたくさんつかまえた。もっとも、おやじの組織に属さない連中に限りますがね。成績優秀、みごとなものです。だから、あなたがよそへ行ってこれをばらしても、だれも信じない。しかし、あなたはどうもうさんくさいところがある。消したほうがいいのかもしれない。そうするかな」
「おいおい、ここで殺そうというのか」
「いや、そんなばかなことはしませんよ。おやじにたのんで殺し屋を出してもらう。そいつがあなたを殺し、あとでその殺し屋をぼくが殺すというわけです。おやじはぼくのためなら、なんでもしてくれる。うるわしい父性愛。殺し屋の命のひとつやふたつ、惜しげもなく調達してくれるのです」
「こみいった状態だなあ。二つの顔の時代というべきなのだろう。だれも、みなの見る通りという自分ではいやなのだ。自己をいつわるたのしみというのか、外見をいつわるたのしみというべきか……」
「ぶつぶつ言うな。さておやじに電話し、時間をみはからってあなたを釈放するとするか」
 警官が電話機に手をのばすのを見て、私は言った。このままだと殺されてしまう。
「まあ、待ちなさい。わたしを殺したらえらいことになるぞ。わたしの正体を教えるが、警察上層部直属の秘密情報員だ。挙動のおかしい連中にそれとなく接近し、その実情をさぐって報告するのが任務だ。うそだと思うかもしれないが」
「うそだとも思いませんが、本当とも信じられない。しかし、世の中がこう複雑になってくると、だし抜き競争、ありうることです。あなたはわたしのことをさっと見破った。本当のようだ。どうです、取引きしましょう。おたがいにこの場のことは忘れるということで」
「いいでしょう。しかし、極秘だぞ。たとえおやじさんにも話さんでくれ」
 と私が言うと、相手はうなずいた。
「ええ、ぼくのことも極秘ですよ。もししゃべったら、覚悟してもらいますよ」
 私は警察から出た。かくれ家であるアパートの小さな室に入り、きょうのことを報告書にまとめる。秘密情報員としてのなすべき仕事なのだ。
 もっとも、若い警官のことは約束だから書かなかった。宝石強盗あがりの乞食についての件は、適当にぼかした。なにもかもはっきりさせては面白くない。いくらか手もとに秘密を残しておくほうがいいのだ。秘密こそ生きがい。
 書き終えた報告書をクリップでとめる。このあいだ手に入れた特殊クリップを使ってみた。放射線を出す作用があり、小型受信器で、ある距離に近づけばその所在をたしかめることができる。
 私はこれを読む上役がどんな人か知らないのだ。しかし、こうしておけば、それを知る機会にめぐりあえるかもしれない。書類を封筒に入れ、宛名を書き、ポストにほうりこむ。
 
 それから私は帰宅した。わが奥方である美佐子の待つ美容院の二階のマイホームへだ。だが、すぐ眠るわけではない。机にむかって原稿を書く。つまり、私はここでは童話作家ということになっているのだ。秘密の任務は妻にも内密。
〈ある日のこと、お山の上でクマちゃんがウサギちゃんに会いました……〉
 なごやかなものだ。時にはわが奥方が紅茶を入れて運んできてくれる。髪ゆいの亭主の、あまり売れない童話作家。しかし、私はべつに劣等感も持たない。私には秘密があるのだ。彼女の気がつかぬ、大きなことをやっているからだ。だが、少しは劣等感を持っているようよそおうべきかな。そのほうが自然かもしれない。
 これが私の日常。しかし、その数日後。なんということだ。この部屋で小型受信器が鳴りだした。放射線の出ている方向をそっとのぞくと、妻がなにか書類に目を通している。どうやら、私の書いた報告書のようだ。やがて、それは金庫にしまわれてしまった。
 いったい、なぜあれがここに。美佐子には特殊な才能があり、それをみこまれて警察上層部の秘密顧問になっているのだろうか。それとも、外国のスパイの一員で、盗み出した書類の中継役なのだろうか……。
 機会をみて、私はそれとなく美佐子に言ってみた。
「おまえ、なにかわたしにかくしてることがあるんじゃないか」
 あどけない返事。
「そんなもの、あるわけないわよ。あなたのほうにあるんじゃないの。だからそんな気持ちになるのよ。ねえ、どうなの」
「こっちにはあるものか」
「だったら、そんな水くさいこと言わないでよ。夫婦なんだし、おなじ日本人なんだし、おなじ人間どうしじゃないの」
 そういえばそうだ。表面的にはたしかにそうだし、それでうまくいってもいる。しかし、なんだかうたがわしくならざるをえない。本当に夫婦なんだろうか。おなじ日本人どうしなんだろうか。第一、おなじ人間なのかどうかも、なんとなく信じられなくなってくるのだ。
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