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ある一日

时间: 2017-12-31    进入日语论坛
核心提示: メロン・マンションの十階の一室。いまは夜、夜の十二時ごろ。土曜日から日曜日にむかって、時が静かに一歩を進めようとしてい
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 メロン・マンションの十階の一室。いまは夜、夜の十二時ごろ。土曜日から日曜日にむかって、時が静かに一歩を進めようとしていた。季節は秋の十月。どこか遠い山では、いまごろ樹々の葉がひっそりと美しく黄ばんでいることだろう。
 おだやかな天候。土曜日も秋晴れでおだやかに過ぎていったし、これからはじまる日曜日もまた……。
 この部屋には三十歳ぐらいの江川という男がひとりで住んでいた。とくに特徴のない会社員だ。彼はベッドの上で眠っていた。そして、夢を見ていた。幼い頃の夢。すでに数年前に死んでしまった、きびしい性格であった父親の夢を見ていた。父親は非常ベルを指さし、いたずら半分に押すのではないぞと、江川に注意をしている。だが、そう言われると、なおいじってみたくなるのだった。父がむこうへ行ったあと、指でちょっとさわってみる。なんということもない。こんどはもう少し力を入れてみる。そのうち、ベルは激しく鳴り出してしまった……。
 江川は目をこすりながら、ベッドの上におきあがった。へんな夢を見たなあ。彼は首をふる。まだつきまとっているベルの音をふりはらおうとしたのだ。しかし、ベルは鳴りつづけている。そばの電話機のなかで鳴りつづけている。彼は泳ぐような手つきで、受話器をとって耳に当てた。声が出てきた。
「おい、しっかりやっているか。おまえはそそっかしいところがあるから、わたしは心配でならないんだ」
「大丈夫ですよ、おとうさん」
「それならいいが……」
 電話は切れた。江川は受話器をもとにもどす。そして、彼は飛びあがった。いまのはおやじの声だったじゃないか。忘れることのできない父の声だ。しかも、この世にいないはずの父の声だ。ショックだった。まだ自分が夢のなかにいるような気分だったが、あきらかに目はさめている。
 眠りながら電話のベルを聞き、夢が瞬時に形成されるということはありうるだろう。だが、いまの父の声はどうなのだ。決して気のせいではない。たしかに聞いた。彼はベッドの上にすわる。ねむけはあとかたもなく消えてしまった。
 
 ちょうどその頃、べつなマンションのべつな部屋でも電話が鳴っていた。十七歳の少年のベッドの枕もと。少年は深い眠りからもがくようにはい出し、受話器をとった。若く魅力的な女の声が出てきた。
「ねええ、あたしよ。レイコよ。夜がさびしいの。あなたの声を聞きたくて……」
「う、あ、あ……」
 少年は意味にならない声をあげた。レイコとはその少年のあこがれている女優。心のなかだけで、ひそかに熱烈にあこがれの対象としている女性。心にきざまれているその声が、いま親しげに甘くささやきかけてきたのだ。あまりの意外さ、あまりの興奮。少年の口からすぐに声が出なかったのも、むりもない。少年がまごついているうちに、電話は切れた。少年はショックですっかり目ざめる。夜の静けさのなかで、彼の胸は激しく波うちつづけるのだった。
 
 また、ちょうどその頃、べつなマンションのべつな部屋でも、電話のベルが鳴っていた。中年の夫人の枕もとで。彼女が受話器をとると、若い男の声がした。
「ぼくはあなたを好きなんです。いまだに忘れることができないんです。あなたの面影がまだ頭に焼きついているのです……」
 名前は言わなくても、その声は彼女にとって忘れられないものだった。彼女にとっての初恋の男性。二十年ぐらい前の光景が、彼女の心に鮮明に呼びさまされる。男の声は、その昔そのままの若々しい声だった。彼女は一瞬、ふと自分が若くなったような気がした。
 電話の声は切れた。彼女はそっと受話器をもどす。そばで眠っている亭主に気づかれないように。しかし、いまのショックで彼女はすっかり目がさめてしまっていた。
 どこの家でも、あらゆる部屋で、あらゆる人に、このようなさまざまな声が話しかけ、ショックを与えていた……。
 
 メロン・マンションの十階の江川は、照明をあかるくし、ベッドの上にすわってタバコを吸った。ねむけが飛び去ってしまったし、つぎの日の朝は、休日だから早くおきる必要もない。むりに眠ることもないのだ。
 電話機がゆっくりチンチンと鳴った。普通の呼び出し音の鳴り方でなく、ごく時たま混線か故障の際にこんな音をたてる。そんな感じの鳴り方だった。こんなのに応答してみたって、まともな通話はできないにきまってる。ここをめざしてかかってきた電話ではないのだ。
 しかし、江川は手をのばした。ほかにすることもないのだし、ショックでよびさまされた好奇心はつづいている。耳に当てると受話器の奥で声がしていた。こっちに話しかけている口調ではなく、だれか他人に話しているのか、さもなければつぶやいているという感じだった。
「ガリフ製菓会社は派手な宣伝をやって、いかにも景気がよさそうにみえる。株価も高くなっている。しかし、売行きの実情は思わしくなく、金融がだいぶ苦しい。倒産はごく近いうちだろうな……」
 混線だなと江川はうなずく。口もとには笑いが浮かんだ。秘密の情報に接した快感だ。しかも、株も持っていなければ、知人がつとめているわけでもない。無関係なところでのごたごた。こっちは平然として、あわてふためく他人を|眺《なが》めていられるのだ。公表されたニュースを聞くより、ずっと楽しい……。
 
 そのころ、どこかの部屋でも電話機がチンチンと鳴っていた。ひとりでなにかを思い出し、しのび笑いをしているような鳴り方だった。その受話器を手にした者は、こんな声を聞いた。
「あの田島のやつにも困ったものだ。異常さがこうじてきた。社会調整財団の建物を爆破するんだと言いはっている。もはや、われわれの手にはおえない……」
 それを聞いている者は、やはりこみあげる笑いで口もとがほころびる。そのあと、これを通報したものかどうかと、深刻に考えはじめるのだ。だが、「田島とはどこのだれだ」と問いかけても、声は答えず、ただしゃべり、そのうちとぎれるだけなのだ。
 どこかの家の電話機は、チンチンと鳴り、それにつづいてこう言っている。
「秘密機関、X8、連絡事項。本部との暗号解読の鍵の数字を通達する。六五五、八八七、二七二……」
 それを聞いた者は、ぞくぞくしながら、録音装置のスイッチを入れるのだ。どんな役に立ち、どんな価値があるものかは少しもわからないのだが、そうせずにはいられないような気分……。
 
 江川は声がしなくなったので、受話器をもどし、タバコをまた一服した。だが、しばらくすると、電話機はふたたび思いだし笑いのような、チンチンという音をゆっくりと響かせはじめた。声はこんなことを言っている。
「……省の瀬山という課長は、そでの下に弱い。これまで、ずいぶんほうぼうから収賄している……」
 そういうこともあるだろうな、と江川は思った。しかし、なぜ今夜に限って、こんなに混線がおこるのだろう。しかも、話題となっている当事者にとっては、あくまでかくし通さねばならぬような内容のものばかり。聞いているこっちはおかげで楽しい気分だがな。偶然のつみ重ねなのだろうか。しかし、ただ聞きっぱなしにすることもない。江川は思いつき、銀行につとめている友人の自宅に電話をかけてみた。相手もおきていて、すぐ通話ができた。江川は言う。
「よけいなことかもしれないが、ちょっと耳にしたうわさがあってね。ガリフ製菓が倒産寸前だそうだよ。きみの銀行でも、取引があるんじゃないかい。早いところ手を打って、損害を食いとめたほうがいいよ」
「それはそれは、知らせてくれてありがとう。ご好意は感謝するよ。たしかに取引はある。しかしだ、営業は順調そのもの。資産はたっぷりあり、担保もとってある。あの会社の倒産なんて、ありえないよ。ところで、どこでそんなデマを聞いたんだい」
「じつはね、電話が変な鳴り方をし、受話器をとったらそんな話が聞えたのさ」
「変なこともあればあるものだな。こっちの電話もさっきから変なんだ。チンチン鳴り、わけのわからぬことをつぶやいている。しかし、倒産のうわさは困るな。利害関係者は日曜一杯、気が気じゃないだろうな」
「そうだったのか。事実無根なら、それに越したことはない。さよなら」
「さよなら。しかし、この電話、本当にきみからなんだろうな……」
 友人のふしぎがる声を聞きながら、江川は電話を切り、腕組みをした。なにがどこまで本当なのだろう。さっきの電話の声の話はうそだったのだろうか。いまの友人は否定をしていた。取引銀行の者なら、そのようなうわさは頭から打ち消さざるをえない立場だろうな。どっちが事実なのだろう。どちらを信じたものなのか、その判断の基礎はなにもなかった。彼の心はぐらつきはじめていた。たよるものなしに、無重力の空中をただよっているような感じ……。
 
 ほかのどこかの部屋で電話がチンチンと鳴り、出た者の耳に声が流れている。
「……銀行に持主がずっといないまま、ほったらかしになっている預金口座がある。ナンバーと名前とを言えば、だれでも引き出せる。その番号と名前と、預金残高は……」
 聞いた者は受話器をおき、考える。なんというもったいないことだろう。しかしなんでこんな情報が流されているのだろう。あれを聞いたら、だれかがやるんじゃないだろうか。やったって合法的なんだ。うむ、それならば、自分がやっていけないことは……。
 だが、また電話がチンチン鳴る。声。
「……いまの持主のない口座のことだが、さっそく金を自分の口座に移したやつがいる。そいつの名前と電話番号は……」
 けしからん。抜け目がないというのか、ずるがしこいというのか、許せないことだ。忠告してやろう。いま自分のしようとしていたことを忘れ、その番号をまわしてどなる。
「おい、きさま。うまいことしやがったな。持主のない金をネコババしやがって……」
「とんでもない。なんのことかわからない。いまもそんな電話がかかってきたが、キツネにつままれたような話だ」
「ははあ、するとみんな作り話か。いや、これは失礼。へんな被害でお気の毒だね」
 同情して電話を切るが、すぐ疑惑にとらわれる。いまのやつ、本当にデマの被害者なのだろうか。うまいことをやっていたとしても、本人がみとめるわけはないものな。さっきの電話の声、いまの相手、どっちが正しいのかをきめる根拠は、なにもないのだ。宙ぶらりんの不安定な気分。
 
 江川は朝まで眠らなかった。チンチンという音とともに、さまざまなうわさを聞き、奇妙な楽しさを味わうことができるのだ。
「……国の元首は同性愛の性癖がある。すごい特ダネだが、記事としての発表は押さえられた。外交関係上……」
 とか、あるいはこんな内容。
「……省の瀬山という課長は、さかんに収賄をしている。そのことを知って、さっそく電話をして恐喝したやつがある。それをやったやつの名と巻きあげた金額は……」
 江川は面白かった。世の裏側をのぞき見る面白さ。胸がわくわくする。しかし、それと同時に不安めいた気持ちも高まってきた。なぜ不安をおぼえるのかわからなかったが、やがてその原因に気がつく。どこかの電話では、江川自身についてのうわさも、このようにささやかれているのかもしれないではないか。だれかを面白がらせながら……。
 彼はいやな感じになる。どんなふうにそれがなされているのか、あるいはなされていないのか、知りようがないのだ。それを考えると、いらいらしてくる。しかし、電話がふくみ笑いのようにチンチン鳴ると、それを聞かずにはいられなくなるのだ。自分のそんな性質に嫌悪を感じながらも。
 電話機のベルが、こんどは普通の鳴り方をした。
 江川は受話器をとる。
「こちらは消費者相互銀行でございます。あなたさまの発行なさった小切手が回ってまいりましたが、それだけの金額が口座にございません。急いで入金をお願いいたします」
「それはそれは、ご注意ありがとう」
 江川は電話を切って考えたが、このところ小切手を使ったおぼえはない。なにかのまちがいだろう。第一、日曜には銀行業務は休みのはずだ。それでも銀行に問いあわせてみるか。江川は電話をかけた。むこうの声は言う。
「銀行でございます。問いあわせサービスは休むことなくやっております。ご用件はなんでございましょう」
「口座の残高を知りたいのだ。わたしは江川、番号は……」
 それに対して相手は答えてくれた。それを聞き、江川は息のとまる思いだった。予想もしなかった巨額な数字だったのだ。なにがなんだか、わけがわからん。なぜこんなことに。これで新しいデマが作られ、大げさに変形され、よそに流される材料にされるのだろうか。そうなのか、そうでないのか、手がかりはないのだ。
 きょうは狂った日だ。原因や理由はわからないが、どこかでなにかが狂っていることにまちがいない。
 こういう日には、慎重を心がけていなければならない。さわぎに巻きこまれ、引きまわされたりしたら、ろくな結果にならない。
 そうだ、情報銀行の自分の記憶メモを調べて一日をすごそう。こんな日こそ、自分の殻にとじこもるべきなのだ。電話をかけ番号をつげると、自分の口座に接続された。そこには記憶のメモがぎっしりつまっているはずだった。しかし、再生されて送られてきたのは、まったくべつなもの。
〈……きょうはギャンブル・センターへ行かねばならぬ。そこの七十番のスロット・マシンには仕掛けがしてあるのだ。ちょっとした使い方で、大金が出てくる。その金を持って、マサエのやつに手切れ金として渡さなければならない。どうもあの女、たちがよくない。今後は二度と会わないようにしなければ、ひどいことになる……〉
 うっと、江川はうなった。これはなんだ。自分のではない。まったく異質で、とまどいにみちたものが噴出してきた。他人の体臭のにじんだ服から下着、靴や手袋をそっくり身につけさせられたような気分。
 しかし、それは強烈な興味にあふれた世界でもあった。江川はそばの録音器のスイッチを入れ、引きこまれるように耳をすませた。他人の内面の世界に、さらに深く入りこむ。そのマサエとかいう女とのつきあい。よからぬ社会のよからぬ友人たち。そんな社会での、それなりの順応。当人のためのもので、そこには偽りはなにもない。江川にとってはじめての経験、刺激的であり、むずむずするようであり、やがて、その内面の世界になれてくる。もしかすると、これが自分の世界かとも思えてきて、狂っているのがどこかわからなくなり……。
 
 いたるところの部屋で電話機がチンチン鳴り、さまざまな話が流れつづけている。
「……証券が、あす一斉に売りに出る。株価は大幅に下げるだろう……」
 とか、
「……会社の秘書課長、じつは競争会社のスパイだそうで……」
「……氏の邸宅、本人は知らないでいるが、むかし墓場のあったあとなんだ……」
「……夫人の妄想はちょっと変っていて、亭主は白クマだと思いこんでいて……」
「……会社の秘書課長、他社のスパイのごとくよそおっているが、じつは社長の真の側近で、そんなふうによそおうことで……」
 聞く者はだれもが、わくわくするような面白さをおぼえ、同時に自分がどううわさされているかとの不安を感じる。その不安まで考えのまわらない者も、やはり不安に襲われる。面白いのはいいが、面白さだけでは社会が成立しないのではないかと気づくのだ。これがずっとつづいたら、世の中はどうなる。
 たよりにしていたものが弱まり消えてゆく心細さ。空気が徐々に薄くなってゆく時は、こんなふうな感じになるのかもしれない。秩序と確実と安全と平穏への強い願望が、いまはじめてわきあがってくる。それなのに、この異変はいつ終るかわからないのだ。社会の崩れてゆく音が聞えるよう。やめてくれ、もうたくさんだ。このままだと、頭がやがておかしくなる。だれもがそう思う。しかし、どこへその叫びを訴えたらいいのか……。
 
 お昼ちかくなった。江川は混乱し、精神的にたえきれなくなってゆくのを感じ、決心した。電話機にむかい故障サービス係に問いあわせようと思ったのだ。事情がわかればおちつきが取り戻せるだろう。
「もしもし、故障係を……」
「おまえはそそっかしいからなあ……」
 耳に入ってきた声を聞いて、江川は反射的に受話器をおき、目をつぶった。夜中に目ざめさせられた亡父の声が、またも響いてきたのだ。これではだめだ。故障係に連絡のとりようもない。連絡の努力を重ねれば重ねるほど、変なところにつながり、こっちの頭がおかしくなりそうな予感がする。きょうはなにもかも狂っている。そして、なにもかも狂わされる。
 江川はテレビのスイッチを入れてみた。なにか異変についてのニュースがわかるかと期待したのだ。しかし、画面は日常と変りなく、音楽が流れ、笑いがあり、コマーシャルが動き、踊りがあった。それがかえってぶきみだった。
 彼は立って窓からそとを見おろした。広場で幼い予供たちが遊びまわっていた。大人の姿は見えない。そのことから江川は知った。やはり、この異変は自分のところだけではないのだ。いたるところがこうなのだ。ほとんどの人はおそらく自分の部屋におり、受話器を相手に興奮し、また、おののいているのだろう。
 江川は電話機のそばへ戻り、時報サービスを聞こうとした。なにかひとつでいい。確実なものに接したかったのだ。しかし、まだ正午ごろであるはずなのに、流れてきた声は、すでに夕刻であることを告げている。時の流れ方も、きょうは混乱しているかのように。
 
 どこの部屋の、どこの電話機からも、聞く人さえいれば、怪しげな情報が流れ出し、あふれつづけていた。噴火しはじめた火口のごとく、形のさだまらぬ、どこまでが真実かわからない情報が出つづけている。燃えつきて爆発することを知らぬネズミ花火のごとく、嵐の海のごとく、集中豪雨で地上をさまよいはじめた洪水のように、気流の乱れたところでの煙のように、えたいのしれぬものをまきちらし、渦を作り……。
 人びとは、そのなかにひたり、やがてはそのなかで溺れるのではないかとの不安にいらだつが、見まわしても救命具はなにもない。
 
 コンピューターが連合し、回路で結びつきあっているその存在は、名づけようもなく怪しげなものを限りなく作り出し、送り出し、ばらまいていた。作り出す材料はいくらでもある。無限の無限倍といえるほどあるのだ。
 長い年月にわたってたくわえられた情報、それはどれでもすぐ取り出せる。この情報の断片とこの情報の断片とをまぜ、この声に乗せ、どこそこへ流す。その作業なのだ。どこそこの男、どこそこの女、利害の関係、表面に出せない関係、三角関係、裏切り、かげ口、犯罪、そそのかし、誘惑、へつらい、ありとあらゆる要素をごちゃまぜにし、切断し、電話線で送り出すのだ。
 コンピューターは忙しさも、めんどくささも感じない。疲れることなく生産しつづける。要素の組合せは、乱数表によって合成される。計算された狂気といえた。冷静な狂気、継続する狂気、大量の狂気、コンスタントな狂気。人間のいう狂気とくらべ、そこに差異があるといえるかどうか。それはだれにも判定のつけようがないが、やはり狂気は狂気なのだ。
 
 江川はまた電話をかけた。この異常さのなかにおいても、なにかまともなものが残っているはずだ。それをつかまえたかった。彼は天気予報サービスのダイヤルをまわした。しかし、そこからの声。
「いまは雪が降っております。しかし、夜半すぎにはやみ、あすは晴となりましょう」
 窓のそとには秋晴れのおだやかな午後があるというのに、このような言葉。いまや、まともなものはなにひとつないのだ。なめらかなビンのなかの昆虫を江川は連想した。はいあがろうにも、どこもむなしくすべるばかり、つかまれそうなものがあったとしても、それは虚像のように手ごたえのないものなのだ。
 生活のささえが、どうしようもなく崩れてゆく。彼はふと考える。むかしの人はどうやっていたのだろう。なにをたよりにし、なにを信じて行動していたのだろう。だが、いまの彼の混乱した頭では、その疑問の答は出せなかった。
 電話機は時どき休み、そして、時どきまたチンチンと鳥のさえずりのような音をたてる。それは人間の手を呼びよせる呪文でもあった。江川は受話器をとる。どこかで声がしゃべっている。
「……氏はだね、回復不能なのだ。本人はなにも知らずにいるが、体内で病気が進行中で、それはなおしようがない。医療診断コンピューターの特例スイッチが作用し、本人へのその回答はストップされているがね……」
 でたらめなのだろうか、時には真実もまざるのだろうか。江川にはわからなかった。いったい、おれ自身はどうなのだ。この疑惑と不安は、くりかえし江川を包みこんだ。
 江川はぼんやりと立ちあがり、室のすみの装置を運んできて電話機に連結し、健康センターのコンピューターを呼びだした。こんなことをしても意味ないのだが、しないでいることもたまらなく不安なのだ。脈搏や体温のデータを送り、脳波の曲線を送り……。
 やがて、その診断の結果が指示となって送られてくる。
「このままだと、あなたは遠からず精神に異常をきたすでしょう。非常に不安定、注意すべきです。早いところ精密検査と、専門医の手当てとを……」
 からかわれているのだろうか、おどかしなのだろうか。案外この診断の通りなのかもしれない。笑いとばして忘れることもできず、信用することもできない。
 人間にはなまじっか疑う能力があるから、こんなことになるのだ。信ずることしかできなければ、それはそれでぶじなのかもしれない。夕刻と知らされれば、陽が高くても夕刻であり、雪だと知らされれば、晴れていても雪の日なのだ。それもひとつの秩序。しかし、いまはどっちにも進めないのだ。
 これからどうなるのだろう。どこまで崩れつづけるのだろうか。正確のはずで、それだけがとりえのはずのコンピューター。それがこんなになってしまった。この現象が人間にとっていかなることなのか。前例もないし、これまで考えた人もいなかっただろう。
 世の中にはこれだけ人間がいながら、この災害について、助けあう方法を知らないのだ。どう協力しあえばいいのだろうか。
 人間どうしの結びつき、社会の基礎のたよりなさが、はっきりとあらわれている。むかしの社会は、なんによって成立していたのだろう。江川はまたこの疑問をいじった。そして考えた。それは秘密だったのかもしれないと。秘密の上に愛情の花が咲き、友情の葉がしげり、信用や評価がさだまり、取引が運営され、政治がなされ、文化が伸び、社会のまとまりが存在していた。なにもかも秘密の上にのっていた。
 秘密は内部にあるべきもの。だが、その境界がいつのまにかぼやけてきた。クラインの|壺《つぼ》のように、内部と思いこんでいた部分がいつのまにか外部となっていて、とめどなく拡散してしまった……。
 江川はそれでもあきらめず、図書館のサービス部に電話をし、なんでもいいから詩を読んでくれと依頼した。承知しましたとの返事があり、カチッと音がし、声が流れてきた。
 笑い声。笑い声がひたすらつづくばかり。なんの意味もない笑い声。
 これも混乱の一部なのだろうか。人間をからかう表現なのだろうか。現実にこのような詩が存在するのだろうか。それも彼には想像がつかなかった。混乱しているのは自分の外部においてなのか、内部においてなのかも。
 その後も電話は時どきチンチンと鳴り、声をささやき、夜までつづいた。江川は空腹だったが、食欲はおこらなかった。早く目ざめさせられたので、眠くなっていいはずなのだが、少しも眠くならなかった。
 そして、夜の十二時ちかく、電話から声が流れ出た。いままでとちがって、力がこもり、低く、どこから送られてくるのか想像もつかない、えたいのしれぬ声。その時、受話器からガスが噴出したが、無臭であり、緊張しつづけた彼に気づかれることはなかった。
「おまえはもう、心配することはないのだ。もはや、これで混乱は終りなのだ。しかし、わたしの力は十分に知ったことだろう。きょうおこった出来事は、すべて忘れるのだ。しかし、きょうのショックと恐怖と不安とは、決して忘れるな。これは事実おこったことなのだし、その気になれば、いつでもおこせることなのだ。二度とこんな日を迎えたくはないだろう。だからおまえはわたしにたよればいいのだし、ほかにたよるものはなにひとつないのだ。さあ、きょうのすべてを忘れよ。そして、なにかを録音していたら、ピーという音とともに、それを消し去る作業をおこなうのだ。そのあとには、こころよい夜の眠りが待っている……」
 つづいて、ピーという音がした。江川は受話器をおき、録音のすべてを消し、それから大きなあくびをした。きょうの出来事は彼の記憶から消えている。心の奥底には、きのうまでなかったなにかの不安が沈澱しているが、それをすぐ意識することはない。彼は酒を少し飲み、ベッドに入る。ねむけの訪れてくるのは早かった。
 
 そのころ、ほかの部屋の電話機も、それぞれの聞き手に告げていた。
「……きょうのことは忘れるのだ。それから、そばにいる者に電話をかわれ……」
 コンピューターはそれらの反応をすべてチェックし、そこにいない者は行先を追い、電話口に呼び出す。
 
 つぎの朝。やはり平穏な十月の秋晴れだった。きのうの一日はどこかに消えている。すべての人にとって、きのうの一日は、はじめから存在しなかったごとく消えている。だれもが普通の生活にもどっていたが、その心の底には不安の沈澱が降りつもっている。ちょうど、きのう一日、目に見えぬ雪が降りつづいたかのように……。
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