表のガラス戸がガラガラと鳴り、モンペに白手拭のおばやんが入ってきた。背中の担い籠には、アジの干物やスリ身の天ぷら、雑魚が入っている。
「そうやねえ。スリ身を百匁ばもらおうか」
母はミシンを踏む足を止めてメガネを外す。
「ちいとばおまけしちょかぁよ」
おばやんは慣れた手つきで竿秤に掛け、錘をずらして見せる。
「おおきに。だれたろう。休んでいきや」
せんべい座布団を勧める母。
もう半世紀も昔のことである。中学生の私は、頼まれ仕事の洋裁をする母の傍に座って、宿題をしたり、話したりするのが好きだった。
その日もおばやんが帰るとすぐ、「今晩のおかずに買うたがかね」と何気なく訊いた。
「おかずはあるけんど、行商の人が来たら、買うちゃらないかん気がするがよ」
穏やかな目をして微笑む。
それは、私が小学生になったばかりの頃だった。漁師の父の収入だけで四人の子どもを育てるのは苦しかったのだろう。道路工事の人夫、澱粉工場の工員、稲刈りの手伝い等、色々な賃仕事についていた母が「おばやん」と呼ばれる行商をしていた時があった。
ある日、私も連れて行ってくれとせがんだ。
港の市場で仕入れた魚や干物を籠に入れ、天秤棒で担ぐ。振り売りである。お得意の隣村まで四キロメートル。ズシリと重い籠は母の肩に食い込んでいた。
「姉やん。トビウオの干物いらんかね」
田植えが終わったばかりの畦道を危なっかしい足取りで、一軒一軒声を掛けて歩く。
「めじか節もあるぞね。安うしちょくけん」
普段は無口でお上手など言ったこともない母が必死で売ろうとしている。
「買うてやぁ。おばちゃん」
私も精一杯声を張り上げる。しかし何軒まわっても断られるばかり。子供心にも惨めな気持ちになる。
「お母さん。もう去のうよ。暗んなったぜ」
「もう一軒、あの家へ行ったらね」
その一軒が二軒、三軒になっても売れない。だが母は諦めなかった。泣きべそをかく私の手を引いてまた歩き始める。
すっかり日が落ちた村はずれの大きな家が最後になった。
「まあ、おばやん。待ちよったぜ。高知から子供が戻んたに、晩のおかずは無いし、土産に持たす物も無いけん困っちょったがよ」
売れた!それも、一度に籠が軽くなるほどたくさん。その時の母の嬉しそうな顔……。
帰り道での母との会話は記憶に無い。ただ、中学生の兄が自転車で迎えに来てくれたのを鮮明に覚えている。
「おかあさーん。みちよー」
ザザーザザーと波音のする海沿いの夜道をセピア色のライトが次第に近づいてくる。
あの時の兄の声が今も聞こえる。