前方のどこかでせせらぎの音が聞こえたが、からみ合った茂みや木にさえぎられて小川そのものは見えなかった。ちょうど仲間からはわたしの姿が見えなくなったところで、ある木の下の茂みの中に、何か褐色のものがうずくまっているのに気がついた。近寄ってみると、驚いたことにそれはいなくなったインディアンの死体だった。彼は横に倒れて手足をひきつらせ、首は考えられもしない方向にねじまがってちょうどうしろ向きに肩を眺めていた。何か悪いことがおこったことを仲間に知らせるために叫び声をあげてから、走り寄って死体の上にかがみこんだ。わたしの守護天使はこのときすぐ近くにいてくれたに違いない。というのは、恐怖の本能からか、それともかすかな葉ずれの音がしたためか、わたしはふと上を見あげたのである。頭上低くたれさがっていた厚い緑の葉むらの中から、赤毛におおわれた二本の頑丈な腕がにゅうっとのびてきた。一瞬おそければその大きな手がわたしの首にまきついていただろう。すばやくとびのいたが、二本の手のほうがそれよりも速かった。急にとびのかれたため、狙いがそれて致命傷にはいたらなかったが、それでも片手が首筋を、もう一方が顔をつかんだ。わたしは両手をあげて首を護ったが、つぎの瞬間、その巨大な手は顔の上をすべりおりてわたしの手をおさえていた。体ごと軽々と地上から持ちあげられ、やがて頭を耐えがたい力でうしろに押されて首の骨が折れそうになった。五感が麻痺してしまったが夢中で相手の手をかきむしってあごからはずした。見あげると冷酷非情な薄青の目が上からわたしの目をのぞきこんでいる。その恐ろしい目には催眠的効果があって、わたしはもはや抵抗できなくなってしまった。わたしが力を抜いたと見てとると、相手は兇悪な口の両端から二本の白い犬歯をのぞかせて、いよいよ激しくあごをうしろと上のほうへ押しつけた。目の前にァ⊙ール色のうすもやがかかり、耳の中で小さな銀の鈴が鳴った。遠くのほうでにぶい銃声が聞こえ、それから地面に落ちたときのショックまではかすかにおぼえているが、それっきり意識を失って身動き一つできなかったらしい。
気がついてみると茂みの中の隠れ場所で、草の上にあおむけに寝ていた。だれかが川から水を汲んできたらしく、ジョン卿がそれをわたしの顔にふりかけている。チャレンジャーとサマリーが心配そうな表情でわたしの体を支えていた。一瞬二人の科学者としての仮面のかげに、人間的な感情を垣間見た。わたしが参っていたのは怪我ではなくショックのせいで、三十分後には、頭と首筋こそ痛んだがなんでもやれるまで元気をとりもどしていた。
「危いところだったよ、マローン君」と、ジョン卿が言った。「きみの叫び声を聞きつけて走って行ったら、首がちぎれそうなほどねじまげられて足をばたばたやっているので、てっきり仲間が一人へると思ったよ。あわてていたので射ちそこなったが、相手もきみを落として大急ぎで逃げだした。ああ、ライフルを持った人間が五十人もいてくれたらな。
そしたらあの悪党どもを全滅させて、この土地をきたときよりもきれいにして引きあげられるんだが」 今や猿人どもはわれわれの所在をつきとめ、四方八方から監視していることが明らかだった。昼間はさほど恐るるに足らないが、夜の間に襲ってくることは十分考えられる。
だからできるだけ早く連中のそばからはなれるに越したことはない。三方を深い森に囲まれているから、待伏せされることもありうる。だが残る一方――湖のほうに傾斜している方向は、ところどころ木や空地のある低い茂みになっている。それはわたしが単独で探検したときに通った道であり、まっすぐインディアンの洞窟につづいている。したがってわれわれの進むべき道はこれ以外にない。
一つだけ大いに残念なことがある。キャンプをはなれることによって、そとに残してきた荷物が惜しいからではなく、外界との唯一のつながりであるサンボとの連絡がとだえてしまうからだ。しかし十分な弾薬と銃があるから、当座は心配ない。それに間もなくキャンプへ戻ってまたサンボと連絡をとる機会もあるだろう。彼は現在の場所にとどまることを固く約束した。まさかあの忠実な男が約束を破るとは思えない。
われわれは午ひるすぎ間もなく出発した。若い酋長が先頭に立って道案内をつとめたが、荷物運びだけは憤然として断わった。そのあとにわずかな荷物を背負った二人の生き残りのインディアンがつづいた。白人四人は弾丸をこめたライフルを持ってしんがりをうけたまわった。歩きだすと同時に突然背後の深い森の中から猿人の恐ろしい叫び声がおこった。われわれの出発を喜ぶ声か、それとも逃げだすのを見て野次やじる声なのだろう。ふり向いても厚い木の壁しか見えないが、長く尾を引いた叫び声から察するに、森の中には大勢の敵がひそんでいるらしい。しかし追いかけてくる様子はなく、間もなくわれわれは彼らの力の及ばない空地に出た。
四人の最後尾を歩きながら、前を行く三人の恰好を見て笑いださずにはいられなかった。あの晩オールバニーでペルシャじゅうたんと、色電気のバラ色の光に照らされた自分の写真に囲まれていたぜいたくなジョン?ロクストン卿と、今日の前にいる人物が同じ人間だとは信じられない。また、エンモア?パークの広々とした書斎で、大きな机の向こうで威圧的に胸を張っていたチャレンジャー教授、そして動物学会の会合で演壇にのぼった厳格でとりすました姿は、いったいどこへ行ってしまったのか? サリーあたりでお目にかかる三人の浮浪者にしても、これほどまでにみすぼらしく汚ならしくはあるまい。台地にのぼってからわずか一週間しかたたないが、着がえは全部崖下のキャンプに置いてきてしまったし、おまけに一週間とは言っても厳しい試練の連続だった。もっとも猿人の手荒な取扱いをまぬがれたわたしが一番苦労をしなかったことにはなるのだが。わたしを除く三人は帽子をなくしてしまって、頭のまわりにハンカチを巻きつけている。服はぼろぼろにたれさがり、ひげぼうぼうで汚れ放題の顔からは人相の判別さえつかない。チャレンジャーとサマリーはひどくびっこをひき、わたしはわたしで朝のショックから立ちなおれず、いまだに足を引きずって歩いている。首は物すごい力でしめつけられたため、板きれのようにこっている。まったくのところ見るも哀れなていたらくで、連れのインディアンたちが時おり恐れと驚きの表情を浮かべながらふりかえるのも不思議はなかった。