やがて――ああ、それからおこったことをどう説明したらいいのか――多数派の熱狂と、それに対する少数派の反応が一つにとけ合い、ホールのうしろのほうから、しだいに人数を増しながら、オーケストラ?ボックスを一またぎにして演壇に殺到し、興奮の極に達して四人の英雄をかつぎだしたのである」(このあたりは上出来だぞ、マック)「それまで聴衆の態度にいたらない点があったとしても、彼らはそれを十分に埋め合わせた。総立ちになって、動き、叫び、身ぶりで意志表示をした。黒山のような人だかりが、四人の旅行家を拍手でとり囲んだ。『胴上げだ! 胴上げだ!』と、彼らは口々に叫んだ。四人はたちまち彼らの頭上にさしあげられた。逃げだそうとしても無駄で、四人は名誉ある高みに据えられてしまった。降りようとしても降りられないほど、人々はぎっしり詰めかけていたのである。『リージェント?ストリートヘ! リージェント?ストリートへ!』と叫び声がおこった。満員の聴衆の中で渦巻がおこり、四人を肩にかついだゆるやかな人の波が出口のほうへ進みはじめた。外でも驚くべき光景がくりひろげられた。十万人をくだらない大群衆が待ちうけていたのである。密集した人ごみはランガム?ホテルの向こうからァ’スフォード?サーカスまでつづいていた。肩車にのった四人の冒険家がホール前の明るい街燈の光の中に姿を現わすと、いっせいに歓呼の声がおこった。『行進! 行進!』という叫び声。群衆は通りをはしからはしまで埋めつくして、リージェント?ストリート、ペル?メル、セント?ジェームズ?ストリート、そしてピカディリーを通る大行進を開始した。ロンドンの中心部は完全に交通が遮断され、行進者と警官やタクシー運転手の間で何度も衝突がくりかえされた。四人がオールバニーのジョン?ロクストン卿の家の前でようやく解放され、ふくれあがった群衆が、『愉快な仲間』を合唱したあと、国歌を歌って全プログラムをしめくくったとき、時間はすでに真夜中をまわっていた。かくてロンドンが絶えて久しくめぐり合うことのなかった記念すべき夜の幕が閉じられたのである」 以上がわが友マクドナの記事である。装飾過剰の気味はあるにせよ、非常に正確な報告と言っていいだろう。例の突発大事件について言うならば、聴衆にとっては驚くべきことだったかもしれないが、断わるまでもなく、われわれには少しも意外ではなかった。ジョン?ロクストン卿が、護身用のペチコートを頭からかぶって、チャレンジャー教授のために、彼のいわゆる『悪魔のひよっこ』をつかまえに行く途中、わたしとばったりでくわした場面を、読者は記憶しておられるだろう。また、わたしは台地から降りるとき教授の荷物で手を焼いたことも話したはずだし、もし帰り旅のことを詳しく書いたとしたら、この汚らしい道連れの旺盛な食欲をみたすために腐った魚を手に入れなければならなかった苦労話にも当然触れていたことだろう。わたしがそれについて多くを語らなかったのは、言うまでもなくチャレンジャー教授の強い希望によるものである。教授は論敵を決定的に打ち破る時がくるまで、反駁不能な証拠物件を持ち帰ったらしいなどと噂されることを望んでいなかったのだ。
ロンドン翼手竜の運命についても一言つけ加えておこう。といっても、確実なことは何一つない。それがクィーンズ?ホールの屋根に、悪魔の彫像のような姿で何時間もとまっていたと、おびえた二人の婦人が証言している。翌日の夕刊には、近衛歩兵連隊のマイルズという兵隊が、マールボロー?ハウスの前で警備中無断で持場をはなれたかどで軍法会議に付された。マイルズの陳述はこうである。ふと空を見あげたところ、目をよぎって悪魔が飛んでゆくのが見えたので、あわてて銃を捨ててペル?メルのほうへ逃げだしたと。
もちろんこの申し開きは受けいれられなかったが、彼が問題の翼手竜を見たのだということは十分考えられる。このほかの証書としては、わたしの知るかぎり、ァ¢ンダ=アメリカ航路の定期船『フリースランド号』の航海日誌に見いだされるだけである。この汽船が翌朝九時に、スタート岬を右舷後方十マイルに見ながら進んでいるとき、山羊とこうもりのあいのこのようなものが、西南の方角へ物すごいスピードで飛び去ってゆくのを見たというのである。もし翼手竜の帰巣本能が彼を正しい方向に導いたとしたら、ヨーロッパ最後の翼手竜はどこか大西洋の果てに旅の終点を発見したのに違いない。
そしてグラディスだが――ああ、わたしのグラディス!――あの神秘的なグラディス湖は、今や中央湖と改名されなければならない。なぜなら、わたしを通じて彼女の名を不滅にする必要はもはやないからだ。わたしは彼女の性格の中に非常な芯の強さを見ていたのではなかったか? 彼女の命令に従うことを誇りに思っていたころでさえ、これは恋する男を死の危険に追いやるかもしれない哀れむべき恋であると、薄々感じていたのではなかったか? わたしは、本心では、彼女の美しい顔の奥にある魂をのぞくとき、そこにはわがままと移り気の双生児のような影がぼんやり見えるという考えを、いつも完全には拭いされなかったのではないか? いったい彼女は人をあっといわせるような英雄的行為そのものを愛したのだろうか、それとも、自分にはなんら犠牲を強いることなく、それが自分に与えてくれる栄光だけがお目当てだったのか? あるいはまた、あれはあとからくっつけたただの理屈にすぎなかったのだろうか? いずれにしても、あれは生涯のショックであった。そのためわたしは一時シニックな人間になってしまった。しかしこれを書いている今は、すでに一週間という時がたち、わたしはジョン?ロクストン卿と重大な会見をした――もしかすると、事態はいよいよ悪化するかもしれないのだ。
簡単に話そう。サウサンプトンには手紙も電報も届いていなかった。その夜わたしは不安で熱病におかされたようになって、ストレータムのこぢんまりした別荘へ駆けつけた。
いったいグラディスは生きているのか死んだのか? 両腕を拡げ、微笑を浮かべて、彼女の気まぐれを満足させるために命の危険までおかした男に賛辞を捧げるという夜ごとのあの夢は、いったいどこへ消えてしまったのか? わたしはすでに夢想の高みから引きずりおろされてしっかり地に足がついていた。しかし納得のゆく理由さえ説明されれば、わたしはふたたび雲の上へ舞いあがるかもしれない。わたしは夜の小径を駆け抜けて激しくドアを叩いた。中からグラディスの声が聞こえてきたので、驚く女中を押しのけて、居間にとびこんだ。彼女はピアノのそばのかさつきスタンドの下で長椅子に坐っていた。わたしはたった三歩で部屋を横切って、彼女の両手を握りしめた。
「グラディス! グラディス!」
彼女は驚いてわたしを見た。どこがどうとは言えないが、微妙な変化のあとが見られる。目の表情、下から見あげるようなきつい視線、きっと結んだ口もとなどは、わたしの知らないものだった。彼女は手を引っこめた。
「これはなんの意味ですの?」
「グラディス! いったいどうしたんです? あなたはぼくのグラディス――愛するグラディス?ハンガートンでしょう?」「いいえ、わたしはグラディス?ポッツですわ。夫をご紹介させてくださいな」 人生とはなんとばかげたものであろうか! 気がついてみると、わたしはしょうが色の髪をした小男に向かって、無意識のうちにおじぎをしたり握手をかわしたりしていた。その男は、かつてはわたしの神聖な場所だった深い肘掛椅子にうずくまっていたのである。