康煕帝は8歳で即位、14歳で親政した。統一された多民族国家の護衛者で、清の繁栄の基盤を定め、康(煕)乾(隆)盛世を切り開いた。
玄燁は順治11年3月18日(1654年5月4日)に北京の紫禁城景仁宮で生まれた。順治帝の3番目の子である。母は孝康章皇后佟佳氏。康煕61年11月13日(1722年12月20日)北京暢春園清渓書屋にて崩御、69歳であった。在位は61年と10ヶ月(1661年2月5日―1722年12月20日)で中国歴史上で在位時間が最も長い皇帝である。
中国大陸と台湾などの歴史学界及び教科書では一般に、康煕、雍正、乾隆の時期を合わせて康(煕)乾(隆)盛世或いは康(煕)雍(正)乾(隆)盛世と呼ばれる。
康煕8年(1669年)、康煕帝は時々、少年近衛兵を招集して宮中で相撲をさせるなどして過ごしていたが、5月16日(6月14日)に突然、輔政大臣のオボイを捕らえた。大臣たちはオボイの30もの罪状を並べ立て、一族もろとも殺すよう求めたが、康煕帝はオボイのこれまでの功労を考慮して死刑ではなく終身刑とした。しかしオボイの弟、甥、腹心、部下たちを殺した。残ったもう1人の輔政大臣のエビルン(遏必隆)は長年オボイと手を組んでいたため太師、一等公の職を奪われた。こうして康煕帝は完全に朝廷の政権を取り戻し、真の親政を行うようになった。
康煕12年(1673年)、康煕帝は三藩を廃止することを決めたが、平西王・呉三桂がこれに反対し清に反旗を翻した。他の二藩も相次いで呼応した。三藩の乱は最終的に康煕20年(1681年)に鎮圧された。国家はこのため大きな損失を受けたが、清の統治も維持された。康煕帝は安渓大学士・李光地の意見を取り入れ、鄭氏政権からの降将施琅を福建水師提督とし1683年に出兵して台湾を制圧、反清勢力を完全に滅ぼした。
1690年から1697年まで、ジュンガル部のガルダン・ハーン(噶爾丹)を数回打ち負かした。これは「ガルダン・ハーンの3回征戦」と呼ばれる。ヤクサ戦役で、康煕は黒竜江の将軍サプス(薩布素)を派遣して帝政ロシアの黒竜江への侵略を駆逐し、ヤクサ城(今ロシア連邦のスコボロジノ)とネルチンスクを取り戻した。康煕は北京の東北にある熱河に避暑山荘を建て、モンゴル部、チベット部、カザフスタン部などの王侯貴族が拝見する場所とした。これが清がやたらと皇室園林を建造するようになったきっかけである。
在位期間中、康煕は三藩を平定し、台湾を取り戻したほか、帝政ロシアの拡大を食い止め、ジュンガル部に自ら出征し康(煕)乾(隆)盛世を切り開いた。賢明な皇帝であり、偉大な政治家でもあった。当時、大清の領土は東は大海から、西は葱嶺まで、南は曾母暗沙(中国領域最南点にあるサンゴ礁)まで、北は外興安嶺まで、西北はバルハシ湖まで、東北は樺太島までとなり、陸地の総面積は1300万平方キロに上った。大清帝国は当時世界で領土が最も広大かつ人口が多い国であり、経済が最も繁栄した国であった。