朱元璋は1328年(元末の天順帝天暦元年)9月18日丁未時に四男として生まれる。父親は朱五四、母親は陳氏、原籍は泗州盱眙にあった。
朱元璋は幼い頃、地主のために牛を放牧していた。至正4年(1344年)に淮河北部は干ばつに見舞われ、朱元璋の父、母、兄が相次いで死去したため、朱元璋はやむを得ず皇覚寺という寺に身を寄せ、托鉢僧となった。寺に入って2カ月足らずで、凶作のため寺には収入がなくなり、住持は僧侶を解散させた。朱元璋は淮河流域で勧進の旅を続けながらかろうじて生き延びたが、ほとんど乞食同然の生活であった。25歳の時、韓林児を教祖とする東系紅巾軍の一派として濠州で挙兵していた郭子興のもとに身を寄せた。郭子興が亡くなった後、朱元璋は郭子興の軍を統率することになり、小明王韓林児の左副元帥に任ぜられた。その後軍功により出世し、至正16年(1356年)呉国公に崇められ、至正24年(1364年)、呉王を名乗った。
洪武元年(1368年)、多くの農民蜂起軍を打ち破り、残存勢力を平定した後、南京で帝王と称し、国号を大明、年号を洪武とした。洪武元年、諸将領を公侯に封じた。初期は5人の大将、1人の大臣を開国の元勲にした。李善長を韓国公、徐達を魏国公、常遇春を鄭国公、李文忠を曹国公、馮勝を宋国公、鄧愈を衛国公とした。その後、胡大海を越国公、戦死した丁徳興を済国公、湯和を信国公、馮国用を郢国公とした。