1913年8月16日、周恩来は天津の南開学校に入学した。学校の創立者の厳範孫、張伯苓に「宰相の才」と見なされ、学費などを免除された。南開学校で当時このような待遇を受けた唯一の学生だった。青年時代の周恩来は颯爽とした男前で、南開では女性を演じたことがある。南開にいる間に、革命の伴侶ともなる妻の鄧頴超と知り合った。卒業の際、南開学校「卒業同級生名簿」の中で周恩来は「君性温和誠実、最富于感情、摯于友誼、凡朋友及公益事、無不尽力(性格は温和誠実で、情感に富み、友情に真摯で、友だちのことや公益のことならばいくらでも尽力する)」と評価されている。1917年から1919年まで、日本の明治法律学校(現在の明治大学)に留学した。1919年に帰国したが、まもなく五・四運動が勃発した。周恩来は積極的に参与し、運動の指導者となり、9月16日に覚悟社を創立し、『天津学生聯合会報』を編集し、ペンネーム「伍豪」で新聞に時評文章を発表していた。1920年11月7日、周恩来は水路でフランスへ赴き、働きながら勉強した。期間中それぞれフランス、イギリス、ドイツ・ベルリン大学で学んだ。パリで、同じく働きながら勉強する四川人の鄧小平と知り合い、一生の良い友・革命の同志となった。
1934年、紅軍の長征が始まり、1935年1月中旬、貴州省遵義で政治局拡大会議を開いた。周恩来は遵義会議で毛沢東の指導を支持し、毛沢東が軍の権力を握ることに決定的な役割を果たした。遵義会議は毛沢東を中央政治局常務委員に選ぶことを促し、党と紅軍の方策決定に参加させた。長征が始まる前に設立した「三人団」を撤廃し、朱徳、毛沢東に軍事指揮を担当させ、周恩来を党内委託の軍事指揮上で最終決定を下す責任者にした。会議後、中央政治局常務委員会は遵義会議の決定に基づいて分担を行った。毛沢東の提案によって、張聞天は博古にかわり党内で責任を負うことになった。毛沢東は周恩来の軍事指揮上における協力者である。3月中旬、周恩来をはじめとし、毛沢東と王稼祥をメンバーとする三人軍事指揮グループ(新三人団)を設置し、紅軍の作戦の指揮権を持った。まもなく周恩来が重病にかかったため、次第に毛沢東が周恩来の代わりに指揮するようになった。
1945年、抗日戦争終戦後、周恩来は毛沢東に同行して重慶へ赴き、国民党と重慶交渉を行った。国共双方の関係が緩和し、周恩来は一度宴会で酒に酔ったことがある。重慶交渉で「双十協定」の達成を実現した。
1946年11月、軍隊国家化と新政府構成などの問題で、双方の意見の食い違いは解決を見ず、国民党と共産党の和平交渉は失敗した。周恩来は南京から延安に戻った。1947年、国民党軍は陝(西)甘(粛)寧(夏)辺区を重点に攻撃し、一時延安を制圧した。周恩来は毛沢東と共に陝西北部に転戦した。1948年11月、中国共産党の部隊は戦略的反攻を展開し、周恩来は中央軍事委員会総参謀長代理を兼任し、毛沢東と共に遼瀋、平津、淮海の三大戦役を指揮した。林彪が東北戦場で抜きん出た成果をおさめ、遼瀋戦役の後に急速に山海関に進攻し、かつ天津を攻め落とした。東北野戦軍(すなわち第4野戦軍)は北平(北京)を包囲した。1949年4月、周恩来をはじめとする中国共産党代表団は、張治中をはじめとする南京政府代表団と北平で20日間にわたって和平交渉を行った。
中華人民共和国建国後、周恩来はずっと国務院(1954年10月25日までは政務院と呼ばれた)総理を務め、かつ外交部長を兼任した。中国共産党と国家の日常事務を処理する一方、毛沢東と共に党の社会主義建設の路線、方針、政策を制定した。国民経済を発展する5カ年計画を自ら数回主宰、制定、実施した。
在任期間中、周恩来は水利建設と国防科学技術事業の発展を支持し、葛洲ダム水利プロジェクトの建設を主宰した。また両弾一星(原子爆弾・水素爆弾・人工衛星)プロジェクトの総企画と総指揮も務めた。また統一戦線活動、知識分子活動、文化活動、軍の近代化建設にも特別に関心を寄せた。