宋元の時期に見られ始めた福建土楼は、明の末、清、中華民国の時代になり、繁栄を遂げた。46の土楼のうち、一番古いものと一番新しいものは共に初渓土楼群にある。集慶楼は、この土楼群の中で最古最大の円形土楼で、1419年、明の永楽帝時代に建てられた。同心円状に2棟の円形土楼が建てられており、内側は1階建て、外側は4階建てで、階段は72か所あり、それぞれの階に53ずつ部屋が作られている。土楼は地震対策、防火、獣や外敵の襲来に備えて造った大規模な山岳民家建築で、素材は土や石、木材などで、冬は暖かく夏は涼しい。中には生活に必要なものがすべて揃っており、1つの村のようである。100世帯以上が一緒に住むこともあり、外との接点を持たずに数カ月籠城できたといわれる。
永定湖坑鎮の環極楼は、1693年に建てられたものである。最大の長所は耐震性が強いことである。1918年に永定でマグニチュード7の大地震が発生し、環極楼の正門上方の3、4階の厚い壁に長さ3m以上、幅約20cmのひびが入った。しかし、地震の後、この円形の建物は求心力と構造の牽引作用により、割れ目は意外にもだんだんと縮まり、わずか1本の細長いひびしか残らず、建物の主体は無事で、依然として高くそびえ立っている。
土楼の命名にも意味がある。朝日が東側から昇るという意味で名づけた「東昇楼」、主人の名前から命名した「振福楼」、あるいは地形から命名した「望峰楼」などがある。
土楼の歴史は村、家族の歴史と同じで「天、地、人」三方が一体になるもののようである。1960年代以降、伝統的な土楼はほとんど建設されないようになった。しかし、現在も福建の西と南には数万の土楼が残されている。