1937年には、29歳の山崎宏さんは一人の兵士として中国戦争に参加しました。半年後、中国にいた山崎さんは、日本軍の中国の人に対する略奪行為などの非人道的な行為に反発して、山東省の済南市で軍隊から逃亡しました。戦争が終わって、山崎さんは「中国の人々に謝罪をするために自分の人生を捧げたい」という強い信念を持って、診療所を作りました。山崎さんは決してゆとりのある生活ではありませんでしたが、貧しい人々を無料で診察しました。
医者になってから、ずっと山崎さんの給料は変わりませんでした。100元以下でした。別の医者が山崎さんの娘さんに「給料が上がるチャンスがあるたびに、山崎さんは他の人にチャンスをあげてしまうのです。」と言いました。1976年、戦争が終わってから30年経ちました。中国と日本は国交を回復しました。この時、故郷を40年も離れていた山崎宏さんは戦後始めて日本に戻りました。山崎さんの家族は給料が月に30万円の日本の病院での仕事を見つけできました。しかし、山崎さんはその仕事を断りました。彼は 「私は中国に住んでいた時間が日本にいるより長い。だから、中国に帰りたい。」と言いました。そうして、70歳の山崎さんはもう一度中国に来ました。
初めて山崎宏さんのことを知ったとき、私は平静でいることはできませんでした。山崎宏さんは自分の一生を無私の精神で中国の人々に尽くしました。日本人である山崎宏さんの行為に私は感動させられました。中国にした日本の行為を謝罪するために、中国のために自分のできることをする山崎宏さんの精神に心を動かされない人はいないと思います。
もう一つ、中日交流の中で、私自身に起きたエピソードを話したいと思います。高校時代、私たちのクラスに花子さんという日本の交換留学生が入ってきました。花子さんは交換学習期間中、私の家に住んでいました。週末に花子さんは私に寿司の作り方を教えてくれました。私は日本文化をまだ十分に理解していなかったので、分からないことがたくさんありました。そんな時、花子さんは自発的に私に説明してくれました。花子さんは中国語があまり上手ではなかったから、彼女は紙に書いて、ゆっくり日本の文化を話してくれました。学校では休みの時間に、花子さんが授業中理解できなかったところを私と一緒にやりました。夜、帰宅すると、すぐ彼女は私の部屋を訪ねてきました。その10日間で、花子さんは私の家族のようになっていきました。もう5年経ちますが、花子さんの真面目な様子は今でも私の脳裏に浮かびます。
この夏休み、私は家族と一緒に日本観光に行きました。そして、短い時間でしたが、日本人の親切さと真摯な態度は私に深い印象を残しました。東京のあるレストランの前で列に並んでいる時、ウェイターは私たちが外国人と見て、優しく「どちらから来ましたか。」と私に尋ねました。
「北京から。」と私は答えました。
「いい町ですよね。東京はとても暑いでしょう。北京の天気はどうですか。」簡単な会話を通じて、日本人はとても親切で客好きだということが感じられました。食事が終わって、さっきのウェイターは私に贈り物をくれました。この贈り物は小さいものですが、中国人と日本人の友情を表しています。そして、日本人と中国人がとても近くなったような気がしました。東京の街で迷子になった時、私は見知らぬ人に道を聞きました。この日本人は一生懸命に携帯電話のGoogleマップで調べて、どうやって目的地に到着できるかを私に教えてくれました。
日本に滞在中、私は日本人が外国人に対してとても友好的であることを深く感じました。これは私自身の体験で、忘れることができません。最近、中日関係は敏感になっていますが、私は平和的に解決できる日が一日も早く来ることを願っています。さらに、中国と日本の友情が永遠に続いて行くことを願っています。