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【小野妹子】

时间: 2017-10-22    进入日语论坛
核心提示:【小野妹子】(おののいもこ)飛鳥時代の遣隋使。隋では「小妹子」を字音でいいかえ蘇因高とよんだ。607年(推古天皇15)聖徳太子
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【小野妹子】
(おののいもこ)
 
飛鳥時代の遣隋使。隋では「小妹子」を字音でいいかえ蘇因高とよんだ。607年(推古天皇15)聖徳太子が隋と国交するにあたり、第1回遣隋使となり通訳鞍作福利{くらつくりのふくり}を従えて渡海した。『隋書』倭国伝に「大業三年(607)、其ノ王多利思比孤(聖徳太子)、使ヲ遣シテ朝貢ス」とあり、朝廷の使者は「聞ク、海西ノ菩薩{ぼさつ}天子、重ネテ仏法ヲ興スト。故ニ遣シテ朝拝セシメ、兼ネテ沙門{しやもん}数十人、来ッテ仏法ヲ学ブ」と述べたとあるので、小野妹子は学問僧数十人を伴っていたのである。また国書に「日出ズル処ノ天子、書ヲ日没スル処ノ天子に致ス。恙{つつが}無キヤ」とあったので、煬帝{ようだい}はこれをみて悦{よろこ}ばず、鴻臚卿{こうろけい}に「蛮夷{ばんい}ノ書、無礼ナル者有リ。復{ま}タ以{も}ッテ聞スル勿{なか}レ」といったという。翌年隋使裴世清{はいせいせい}を連れて帰朝したが、煬帝からの国書は百済{くだら}人に奪い取られたと称して献上しなかった。そのため群臣議して妹子の責任を問い、流刑に処すべきだとしたが、推古{すいこ}天皇は妹子の書を失う罪を許した。608年9月、裴世清の帰国に際し、ふたたび大使となり、小使吉士雄成{きしのおなり}、通事鞍作福利とともに隋に渡った。僧旻{そうみん}、高向玄理{たかむこのくろまろ}、南淵請安{みなみぶちのしようあん}らの学問僧、留学生も入隋した。妹子らは翌年9月に帰朝したが、福利のみは帰国しなかった。その後、妹子は大礼から大徳冠に昇進したらしい。
 
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