(はくそんこうのたたかい)
663年(天智天皇2)朝鮮半島白村江河口付近での日本?百済連合軍と唐?新羅連合軍との海戦。白村江は朝鮮半島南西部を流れる錦江の古称。「はくすきのえ」とも読む。660年(斉明天皇6)百済は唐?新羅の攻撃を受けて、王城は陥落し、国王は唐に連れ去られ、実質的に滅亡したが、その遺臣たちはなおも百済復興のために戦い、日本に対して救援軍の派遣を求め、あわせて当時日本に滞在していた百済王子余豊璋を新国王に推戴することによる王家再興を要請した。これを受諾した中大兄皇子ら日本の支配層は天皇をはじめとして政権中枢を筑紫に移して臨戦体制を整え、662年豊璋を百済に送り、総勢2万7000人の軍隊を朝鮮半島に派遣した。同年8月日本軍は白村江において劉仁軌らの率いる170艘余りの唐の水軍と対戦し、2日間の海戦で大敗を喫し、多くの戦死者を出して退いた。この敗戦によって日本の支配層は東アジア世界における日本の国家的未成熟さを思い知らされ、これを契機に唐制に倣った律令国家の形成が本格的に着手されることとなった。