(じょうわのへん)
平安前期に起こった謀反事件。第54代仁明天皇は淳和上皇皇子恒貞親王を皇太子にたてていたが、藤原良房は、その妹順子の所生である仁明天皇皇子道康親王(第55代文徳天皇)の立太子を画策していた。この形勢を察した恒貞親王は皇太子を辞する意志を表明したが、天皇、上皇により慰撫されていた。こうした状況下で842年(承和9)7月、嵯峨上皇崩御の2日後、春宮坊帯刀伴健岑、但馬守橘逸勢らによる、皇太子を奉じて東国に赴こうとする謀反が発覚した。その発端は、謀主にされかかった阿保親王が密書をもって太皇太后橘嘉智子に告げたことにあり、健岑、逸勢らは逮捕され、恒貞親王は皇太子を廃され、大納言以下六十余人が連座した。健岑らに謀反の意図はあったらしいが、廃太子の理由はあいまいであり、道康親王を皇儲にしようとした良房の陰謀の疑いが濃く、同年8月に道康親王が立太子し、良房は女を皇太子妃とし、皇室との関係を深めた。