(うんけい)
(?―1223)鎌倉初期の仏師で、日本彫刻史上にもっとも有名な作家。父は定朝{じようちよう}五代目と称する慶派の康慶{こうけい}。当時は京都に根拠を置く院派、円派が貴族階層の信任を受けて勢力があり、興福寺に所属し、奈良を中心とする慶派は振るわなかったが、運慶の代には関東武士の間に活躍の場を求め、その情勢を逆転させるに至った。壮年期には奈良の興福寺の造仏により、仏師としての僧綱位{そうごうい}も法橋{ほつきよう}から法眼{ほうげん}、法印{ほういん}へと上り、晩年には主として鎌倉幕府関係の仕事を手がけるなど、運慶の制作は造仏の盛んだった当時でも例のないほどで、実力もさることながら、人気のほどが察せられる。約60年にわたる仏師としての生涯における作品は、文献上では多いが、確実な遺品として現存するのは奈良円成寺大日如来{だいにちによらい}像(1176)、静岡願成就院阿弥陀{あみだ}如来?不動?毘沙門天{びしやもんてん}像(1186)、神奈川浄楽寺阿弥陀三尊?不動?毘沙門天像(1189)、高野山{こうやさん}不動堂の八大童子像(1197)、奈良興福寺北円堂弥勒{みろく}?無著{むじやく}?世親{せしん}像(1212ころ)、快慶と合作の東大寺金剛力士像(1203)にすぎない。没年は貞応{じょうおう}2年12月11日と伝える。
運慶の作風は、康慶に始まる写実主義を推し進め、平安末期の形式化した貴族趣味的な像に対し、男性的な風貌{ふうぼう}、堂々たる体躯{たいく}、深く複雑な衣文{えもん}線、自由な動きをもつ姿態などに特色があり、かつ天平{てんぴょう}以来の彫刻の古典をその作品に総合している。これが当時の武士階級に喜ばれ、幕府をはじめ諸豪族の注文も多かった。彼の子の湛慶{たんけい}、康勝、康弁、および康慶の弟子快慶などが、彼のあとも引き続いて活躍し、鎌倉時代前半の彫刻界は運慶中心の慶派の時代でもあった。彼の作風は関東の彫刻にも大きな足跡を残し、いわゆる鎌倉地方様式も、この運慶様を基としている