(りょうとうてつりつ)
鎌倉時代後半、後深草{ごふかくさ}天皇系(持明院{じみよういん}統)と亀山{かめやま}天皇系(大覚寺{だいかくじ}統)の両統から交互に皇位につくとされた皇位継承の原則。後嵯峨{ごさが}法皇の死(1272)後、法皇の2子後深草上皇と亀山天皇との間に、いずれの系統が皇位を継承するかについての対立が生じ、これに皇室領荘園{しょうえん}をめぐる対立も加わって天皇家は二つに分裂した。承久{じょうきゅう}の乱(1221)以降皇位継承問題に干渉し、大きな発言力をもっていた鎌倉幕府は、両統の勢力の均衡を重視し、亀山天皇の皇子世仁{よひと}親王が践祚{せんそ}(後宇多{ごうだ}天皇)した際、執権北条時宗{ときむね}の斡旋{あっせん}で持明院統の煕仁{ひろひと}親王(伏見{ふしみ}天皇)を皇太子と定めたが、これが両統迭立の端緒となった。しかし、この原則は明確に規定されたものではなく、その後も皇位継承をめぐって対立が続いたうえ、室町院領などの皇室領荘園をめぐる争いなどから、両統の対立はしだいに深まっていった。大覚寺統の後二条{ごにじょう}天皇の死(1308)後、持明院統の後伏見{ごふしみ}上皇の弟富仁{とみひと}親王が践祚(花園{はなぞの}天皇)し、後二条天皇の弟尊治{たかはる}親王(後醍醐{ごだいご}天皇)が皇太子となったが、このとき、持明院統の皇位は後伏見系に、大覚寺統の皇位は後二条系にそれぞれ将来は伝えられるべきことが定められ、そのため持明院統が後伏見系と花園系に、大覚寺統が後二条系と後醍醐系にそれぞれ再分裂する可能性が生じた。こうした事態を憂慮するとともに両統の抗争に巻き込まれることを嫌った幕府は、1317年(文保1)に使者を上京させて両統の協議による皇位継承ルールの画定を促した(文保{ぶんぽう}の和談)。しかし協議は難航し、幕府から提出された10年交代の両統迭立を軸とする妥協案も、細部について合意をみず、明確な決着がつかぬままに翌年花園天皇は幕府の意を受けて尊治親王に譲位した。後醍醐天皇は3年後に親政を実現し、積極的な政治行動を展開して、やがて幕府との間に軋轢{あつれき}を生じた。一方この間に持明院統はしだいに幕府に接近していった。元弘{げんこう}の変(1331)で後醍醐天皇が捕らえられると、後伏見天皇の皇子量仁{かずひと}親王が六波羅探題{ろくはらたんだい}に擁立されて践祚(光厳{こうごん}天皇)し、光厳天皇は建武{けんむ}新政政府の成立によって退位したが、やがて足利尊氏{あしかがたかうじ}の離反で建武政府が倒壊すると、持明院統は足利氏に擁立され(北朝)、大覚寺統(南朝)と完全に対立するに至り、両統の対立は南北両朝の対立に移行した。1392年(明徳3?元中9)の両朝合一に際しては、ふたたび両統迭立とすることが条件とされたが、実際にはこの条件は守られず、持明院統のみが皇位を継承した。