二人の甚五郎
昔 、飛騨ひだ(岐阜県ぎふけん)の山奥やまおくに、佐吉さきちという、彫ほり物もののとても上手じょうずな男おとこが住すんでいました。ある時とき、佐吉さきちは腕試うでだめしをし [1] ようと、旅たびに出でかけました。
ところが、尾張おわり(愛知県あいちけん)の国くにまで来きた時に、持もっていたお金かねをすっかり使つかい果はたしてしまいました。宿 やどの支払 しはらいにも困 こまった佐吉 さきちは、宿 やどの主人 しゅじんに何 なにか彫 ほり物 ものをさせてほしいと頼 たのみました 。「よし、それじゃ、宿代やどだいのかわりに、何なにか彫ほっておくんなさい。」主人しゅじんが許ゆるしてくれたので、佐吉さきちはさっそく彫ほり始はじめました。
翌朝よくあさ、佐吉さきちは見事みごとな大黒だいこくさまを、宿やどの主人しゅじんに差さし出だしました。「これは見事みごと!こんな素晴すばらしい大黒だいこく様さまは見みたことがない。これは、家 いえの家宝 かほうにさせていただきます 。」大喜おおよろこびする宿やどの主人しゅじんに、佐吉さきちは申もうし訳わけなさそうに。
「彫ほる木きが手元てもとになかったもので、この部屋の大黒柱だいこくばしらをくり抜いて [2] 使つかわせてもらいました。お許ゆるしください。」「…?」宿やどの主人しゅじんが大黒柱だいこくばしらを調しらべてみましたが、傷きず一ひとつ見当みあたりません。「はて、この大黒柱だいこくばしらでしょうか?」「はい。これです。」そう言いって、佐吉さきちがポンと手てを叩たたく [3] と、カタンと、柱はしらの木きが外はずれました。
なるほど、確たしかに中なかは空洞くうどうです。すっかり感心かんしんした宿やどの主人しゅじんは、佐吉さきちの事ことを、その頃ころ、日光東照宮にっこうとうしょうぐうの造営ぞうえいに携たずさわって [4] いた彫ほり物名人ものめいじん左甚五郎ひだりじんごろうに知しらせました。
甚五郎じんごろうは、さっそく佐吉さきちを呼よび寄よせて、「何なんでもいい、お前まえの得意とくいな物ものを彫ほってくれ」と、言いいました。そこで佐吉さきちが彫ほったのは、今いまにも動うごき出だしそうな、見事みごとな仁王様におうさまです。
甚五郎じんごろうはすっかり感心かんしんして、佐吉さきちを東照宮とうしょうぐうの造営ぞうえいに参加さんかさせることにしました。「わたしは、竜りゅうを彫ほろう。
佐吉さきち、お前まえは山門さんもんの猫ねこを彫ほれ。」天下てんかの左甚五郎ひだりじんごろうに認みとめられた嬉うれしさに、佐吉さきちは力ちからいっぱい彫ほり続つづけました。
毎日毎日まいにちまいにち、彫ほりり続つづけて、とうとう山門さんもんの猫ねこが彫ほり上あがりました。そして、甚五郎じんごろうや他ほかの弟子でしたちの仕事しごともすべて終おわり、東照宮とうしょうぐうは完成かんせいしました。検査けんさの役人やくにんたちも、その見事みごとさには、ただ驚おどろくばかりです。
甚五郎じんごろうを始はじめ、みんなはたいそういい気分きぶんになり、その夜よるは酒さけやご馳走ちそうでお祝いわいをしました。酒さけを飲のみ、歌うたい、盛さかり上あがったみんなは、疲つかれていたのか、たくさんのご馳走ちそうを残のこしたまま、グーグーと、眠ねむってしまいました。
ところがその翌朝よくあさ、皆みんなが目覚めざめてみると、どうでしょう。あれほどたくさんあったご馳走ちそうが、一晩ひとばんの内うちになくなっているのです。「お前まえが食たべたんじゃろうが!」「とんでもない、お前まえこそ!」弟子でしたちの言いい争あらそいを聞きくうちに、甚五郎じんごろうと佐吉さきちは、ハッと顔かおを見合みあわせました。甚五郎じんごろうはノミと木きづちを持もち、山門さんもんへと急いそぎました。佐吉さきちも黙だまって、後うしろを追おいます。
山門さんもんへ来きてみると、佐吉さきちの彫ほった猫ねこの周まわりに、ご馳走ちそうを食くい散ちらした跡あとがあります。甚五郎じんごろうはクワッと目めを見開みひらくと、カーンと、ノミと木きづちを振ふるいました。その一刀いっとうのもとに、佐吉さきちの猫ねこは眠ねむり猫ねこになってしまいました。佐吉さきちは甚五郎じんごろうの腕うでの余あまりのすごさに、思おもわず地面じめんにひれ伏ふし [5] ました。
「左甚五郎先生ひだりじんごろうせんせい!」
甚五郎じんごろうは、佐吉さきちの肩かたに手てを置おき、しみじみと言いいました。
「佐吉さきちよ、彫ほり物ものの猫ねこに魂たましいが入はいるとは、お前まえは真まことの名人めいじんじゃ。これより、わしの名なをとって、飛騨ひだの甚五郎じんごろうと名なのるがよい。」「はいっ、ありがとうございます!」佐吉さきちの彫ほった猫ねこは、その後、「日光東照宮にっこうとうしょうぐうの眠ねむり猫ねこ」として、とても評判ひょうばんになりました。それにつれて、飛騨ひだの甚五郎じんごろうの名前なまえも、たいへん有名ゆうめいになったということです。
[1] 「腕試をする」,试试水平。
[2] 「くり抜く」,动词。挖出来、挖通。
[3] 「手を叩く」,拍手。
[4] 「携わる」,动词。参与、参加、从事。
[5] 「地面にひれ伏す」,拜倒在地。
两个甚五郎
从 前,在飞弹(岐阜县)的深山里,住着一个名叫佐吉的男子,他很擅长雕刻。有一次,佐吉想试一试自己的本事,决定出门旅行。
然而,当他来到尾张国(爱知县)的时候,身上的盘缠全部花光了。为了住宿费而苦恼的佐吉向旅店的主人提出请求,希望能为他雕刻某样东西。“好吧!那你就刻样东西当作住宿费吧。”得到了主人的允许,佐吉马上开始雕刻。
第二天早上,佐吉把一个雕刻精美的大黑财神像交给了旅店主人。店主高兴道:“这真是太妙了!我从来没有见过这么精致的大黑财神啊!请允许我把它当做传家之宝吧。”面对欣喜的旅店主人,佐吉有点惭愧地说:“因为手里没有雕刻用的木材,所以我就把这房屋的顶梁柱挖出来用了。请您原谅。”“嗯?什么?”店主惊得说不出话。
店主仔细检查了房屋的顶梁柱,但是没有发现任何痕迹。“咦?是这根柱子吗?”店主问。“是的。就是它。”佐吉回答。佐吉用手“ 梆”地敲了一下,那柱子“咣当”一声塌下来。
原来如此,里面的确是空心的。对此佩服不已的店主,便把佐吉的事告诉了当时正在参与建造日光东照宫的著名雕刻家左甚五郎。
甚五郎马上把佐吉叫来,对他说:“什么都行,刻一个你拿手的东西给我看一看。”于是佐吉就刻了一个栩栩如生的仁王像。甚五郎看了十分钦佩,决定让佐吉加入东照宫的修建。
他吩咐佐吉说:“我负责刻龙。佐吉,你来刻寺院门口的猫吧。”能够得到闻名天下的左甚五郎的认可,佐吉雕刻起来感到力量倍增。
一天一天持续地雕刻,寺院门口的猫终于刻好了。甚五郎和他徒弟的工作也全部完成,东照宫竣工了。前来验收的官吏们也对这些精湛的作品赞不绝口。
甚五郎和大家都异常兴奋,当天晚上大家用美酒佳肴来庆祝。大伙又喝酒,又唱歌,情绪高涨。也许是累了,大家剩下了很多饭菜,就呼呼地睡着了。
然而,第二天早上大家醒来一看,真奇怪!剩下的那么多饭菜,一夜之间竟然没有了。“肯定是你吃的!”“岂有此理。只有你才……”听到徒弟们在相互指责争吵,甚五郎和佐吉互相对视了一下,突然醒悟到了什么。甚五郎拿起凿子和木槌,急忙向寺院门口走去,佐吉也默默地紧随其后。
来到寺院门口一看,在佐吉雕刻的猫的周围,满地散落着吃剩的饭菜。甚五郎睁大眼睛,挥起了手中的凿子和木槌,“咔”地一刀下来,佐吉雕刻的那只猫顿时变成了一只睡觉的猫。见识了甚五郎的高超手艺,佐吉不由得跪在地上叩拜:“左甚五郎大师!”
甚五郎拍拍佐吉的肩膀,语重心长地说:“佐吉啊!赋予这只猫灵魂的是你,你才是真正的大师啊。不如这样吧。从今日起你借用我的名字,就称你为‘飞弹的甚五郎’吧。”“好。非常感谢!”佐吉道谢说。
据说佐吉雕刻的猫,从那以后作为“日光东照宫的睡猫”而闻名天下,并且,飞弹甚五郎的名字也因此变得家喻户晓。
语法详解
(1)動詞の未然形+(さ)せてほしい
表示希望对方允许自己做自己希望、要求的事,含有客气的语气。相当于“请允许我……”
* ご意見を聞かせてほしいんですが。
请让我听听你的意见。
* そんなに遠くないんですが、私に一人で行かせてほしいですが。
因为不远,请让我一个人去吧。
* 来週休ませてほしんですけど。
请允许我下周休息。
(2)動詞の未然形+(さ)せていただく
「…(さ)せていただく」是「…(さ)せてもらう」的自谦形式,表示说话人希望得到对方的同意或认可,含有更加客气、自谦的语气。相当于“请允许……”“请让我……”“我想……”
* まずご紹介させていただきます。こちらは田中部長です。
首先,允许我给大家介绍一下。这位是田中部长。
* 次の問題について少し説明させていただきます。
关于以下问题,请让我做一下说明。
* では、明日電話をさせていただきます。
那么我明天给您打电话。
小知识
東照宮
東照大権現たる徳川家康を祀る神社である。江戸幕府によって建立された日光、久能山などをはじめとして、各地の徳川·松平一門大名家、さらには譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名家も競って建立し、全国で500社を超える東照宮が造られた。当初は東照社、東照大権現などと称していたが、1645年(正保2年)に宮号の宣下があり、以降は東照宮と称するようになった。明治維新以後に廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社とされる。日光東照宮、久能山東照宮の二社ともう一社をもって日本三大東照宮とする東照宮は多く、仙波東照宮、鳳来山東照宮、滝山東照宮などが最後の一社として名乗っているようである。
东照宫
东照宫为供奉谥号为“东照大权现”的德川家康而修建的神社。江户幕府修建日光、久能山东照宫以后,各地德川、松平一族的大名,甚至是世袭家臣,或是和德川家有姻亲关系的外样大名等竞相模仿,在全国修建了超过500座东照宫。起初称为东照社或者东照大权现,后来1645年(正保2年)颁布诏令更名为东照宫。明治维新以后,各地东照宫相继荒废或合并,现存约130座。和日光东照宫、久能山东照宫并称为日本三大东照宫的神社很多,有仙波东照宫、风来山东照宫、龙山东照宫等多种说法。