「ヤン坊《ぼう》ニン坊トン坊」が、どんなにヒットしたかは、九州、熊本のNHKが、トット達《たち》三人を、飛行機に乗せて、特別番組のために、招《よ》んでくれたことでも、よく、わかった。当時、飛行機が、どのくらい珍《めず》らしいか、というと、トットが学校を卒業した時でも、NHKに入った時でも、どんな時でも、ついて来たことのないパパとママが、このときは、羽田飛行場に見送りに来たんだから。リンドバーグの時代から、随分《ずいぶん》、たっているけれど、やっぱり、飛行機に娘《むすめ》が乗る、というと、熊本までなのに、ハンカチ振《ふ》って送りに来る、というのは、つまり、そのくらい、飛行機が珍らしかったに違《ちが》いない。
トットが、生まれて初めて飛行機に乗って、ずーっと下を見ていて、一番、感心したことは、
「日本は、地図と同じ形をしている」
ということだった。地図を作った人は、空から見た訳じゃないのに、よく、あんなに正確に、岬《みさき》だの、入江《いりえ》だの、島だの、ちゃんと描《か》いたものだ、と感動した。熊本の旅館で、ヤン坊の里見京子さんと、ニン坊の横山道代さんと、一つの部屋で、ふとんを並《なら》べ、電気を消した中で、いろんな話をしたことも、トットにとっては、楽しいことだった。「ヤン坊ニン坊トン坊」に関しての新聞や雑誌のインタビューを、三人|揃《そろ》って、百以上したかも知れないけど、ゆっくり話しするのは、初めてだった。
NHKの面接試験のとき、黒いスーツの胸に、赤い造花のバラをつけ、耳たぶを赤くしていたのが、里見京子さん、ということは、わかっていた。でも、あの造花が、とても印象が強かったので、トットは、もう一度、聞いてみた。
「あのときの、赤い造花の女の子が、あなただったのよね」
鈴木|崇予《みつよ》、というのが本名だけど、大岡先生によると、「これは崇予《そうよ》、というのが、よろしゅうございます」ということで、「ソーヨ」と私達が呼んでいた里見さんは、甘《あま》い声で、いった。
「あら、やーね、あれ造花じゃなかったのよ。本物のバラだったのよ」
トットは、とても驚《おどろ》いた。胸に本物の赤いバラをつけるなんて、その頃《ころ》、考えられない贅沢《ぜいたく》だった。トットは、体を起して聞いた。
「え? どうして?」
ソーヨは、マシマロみたい、とみんなに形容されてるくらい、やわらかい顔立ちとは違った、強い感じで、いった。
「だって、そのほうが目立つじゃない? 無理して、試験中、ずーっと毎回、一輪、お花屋さんで買って、胸につけて行ったの」
不思議な羨望感《せんぼうかん》のようなものが、トットを襲《おそ》った。トットは試験の時のことを思い出した。考えただけでも、冷汗《ひやあせ》が出た。�目立つ�なんてこと、考えてみたこともなかった自分が、(なんて幼稚《ようち》だったんだろう!)と恥《はず》かしくなった。ソーヨは、続けて、いった。
「私も、あなたのこと、憶《おぼ》えてるわ。私の、少し後ろに居たでしょう? 私、家に帰って、その日のこと、母に報告したから、憶えてるの」トットは、ソーヨが、自分のことを憶えていた、ということにも、びっくりした。
「へーえ、私、どんなだった?」
ソーヨは、ゆっくりと、いった。
「�お母様、私、今日、フランス人形みたいな人、見たわ�って、いったの」
……一張羅《いつちようら》のオレンジ色のパラシュート・スカートに、白の、ちょうちん袖《そで》のブラウスだった自分の姿が、パッ! と浮《う》かんだ。どこを見ても、奇麗《きれい》な受験生ばかりの中で、心細く立っていたトットを、そんな風に見てた人がいた、というのは、信じられない驚きだった。でも、同時に、自分では、あわれっぽく見えただろう、と思っているのに、フランス人形みたいに見えたなんて、と、トットは、うれしくなった。ソーヨは、お世辞をいう人じゃない、って知っていたから。
そういえば、他《ほか》にも、こういうことがあった。「ヤン坊ニン坊トン坊」の何回目かに「歌舞伎猿《かぶきざる》」という猿が登場した。すべてのセリフが、飯沢匡《いいざわただす》先生の台本に、七五調で、書いてあった。その歌舞伎猿の役になって、小野田勇さんが出演した。小野田勇さんは、放送劇団の二期生で、その頃は、一世を風靡《ふうび》した、三木トリローグループの日曜|娯楽版《ごらくばん》の出演者として、大スターだった。そんなことを全く知らないトットは、小野田勇さんの七五調のうまさに感激《かんげき》して、ぴったり、そばにくっついて聞きほれた。そして、テストが終った時、小野田さんに、
「お上手ねえ」
と、いった。小野田さんにしてみれば、お上手で当然だし、第一、プロに面とむかって、
「お上手ねえ」
などという人間がいるなんて、信じられないことに決まっていた。しかも、それまでの「女優」といえば、スタジオで静かにしていたのに、見ていれば、トットは、ハンドバッグから飴《あめ》やお菓子《かし》を出して、クチャクチャ食べてる。まわりの人に、それをすすめる。そして、目まぐるしく動く。それでいて、「歌です」と、ディレクターにいわれると、ナマ放送でも、平気で、初見《しよけん》で楽譜《がくふ》を見て、すぐ歌っちゃう。娯楽版の人達も歌うけれど、あんな風に、苦もなくは、歌えない……。小野田さんは、トットを見ながら、考えた。
「自分たちの今までの�女優�に持っていたイメージは、苦節何年、というようなものだった。それなのに、あの人は、生まれついてのリズム感があり、率直《そつちよく》だ。時代は変って来た。天性の人の時代になっていくのだろうな。きっと、これからは、こういう人達が、放送を占領《せんりよう》していくに違いない……」
そこで、この「お上手ねえ」を境にして、小野田さんは、スターだった俳優業を、あっさりと止《や》め、作家に転向してしまった。そして、後《のち》に、「若い季節」や「おはなはん」を、書いた。書く仕事は、前から少しは、してらしたけど、これで、はっきりと、職業にしていくことに決めた、という話だった。勿論《もちろん》、こんなことは、その頃、トットが知るはずもなかった。トットは、自分では、自信なく通ってたスタジオだったのに、ある人には、こんな感じを、あたえていたのかと、後年、小野田先生[#「先生」に傍点]になってから伺《うかが》って、ショックを受けた。そして、先生が、
「とにかく、君は、キラキラ輝《かがや》いてたよ」
と、つけ加えて下さったとき、「わあ! 本当ですか?」と有難《ありがた》く思ったけど、同時に、(ああ、あの頃、もし、それを知ってたら!)と、残念にも、思った。でも、自分が、ほとんどの人に、ダメだ、といわれ続けてる中で、キラキラ輝いてた時があった、と知ったことは、それが、後《あと》であったにせよ、トットには、幸福なことだった。