トットは、テレビの化粧室《けしようしつ》で、徳川夢声さんと隣《とな》り合せになった。これまで、全く放送にも映画にも縁《えん》の無かったトットだけど、徳川夢声さんは、知っていた。というのも、子供のときから、徳川夢声さんに関して、(不思議だな)と思ってたことが、あるからだった。それは、トットが小さいとき、たまにラジオを聞くと、よくアナウンサーが、こう、いっていた。
「いやあ、丁度いいところに、徳川夢声さんがスタジオに見えましたので、お話を伺《うかが》いましょう」
トットは、徳川夢声という人は、よく、こんな風に、丁度いい時にNHKを通りかかるもんだなあー、と感心していた。そして、NHKというところは、誰《だれ》でも、丁度いい頃合《ころあ》いの時に行けば、出られるものなのか、と、奇妙《きみよう》な思いでも、いた。そんなわけで、トットは、夢声さんの名前を憶《おぼ》えていたのだった。
トットは、徳川夢声さんが、少しバサバサの、グレーと白髪《しらが》の混った、長目の髪《かみ》を梳《と》かしてもらったり、ほほ骨が特徴《とくちよう》の顔に、化粧をしてもらいながら、トットのほうをむいて、ニッコリ笑って下さったので、いいチャンス! と思ったから、聞いてみることにした。
「あの、昔《むかし》、よくNHKの放送を聞いてると、�徳川夢声さんが、丁度いいところに見えました�って、いってたんですけど、本当に、あんな風に、NHKに偶然《ぐうぜん》、お寄りになったんですか?」
徳川夢声さんは、あまり声を出さないで、
「ハハハハハ」
と笑った。笑うとき、顔は、あまり動かさなかった。目だけが笑ってる、って感じだった。夢声さんは、トットの顔を、面白《おもしろ》いものを見るような目つきで見ながら、おっしゃった。
「ああ、君も、おかしいと思ったの? そうだねえ、本当は偶然に行くことなんて、ないんだよ。いつも頼《たの》まれて行ってたんだから。なんで、あんな風にアナウンサーが言ったのかなあ。しゃれてる、とでも思ったのかな? 不自然だよね」
トットは、(そうだったのか)と、おかしくなった。
「そりゃ、そうですね。そんなにタイミング良く、誰か有名な方がブラリと、スタジオに見えることなんて、考えられませんものね」
多少の経験からトットは、こういった。
夢声さんは、トットのことを知ってて下さった。というのも、夢声さんの、あの有名な、
「宮本《みやもと》武蔵《むさし》」
の朗読は、大岡先生の、手がけたものだった。大岡先生が、朗読の放送を受け持ち、演出もしてたとき、夢声さんに、吉川英治作の「宮本武蔵」を、と考えたのだった。台本も、大岡先生と夢声さんで、いろいろ工夫《くふう》して作って、楽しかった、という話は、大岡先生から聞いていた。そして大岡先生は、こういう大先輩《だいせんぱい》の方達《かたたち》ちにも、トットの事などを、いつの間にか、伝えておいて下さったのだった。
トットが、化粧前で、ハンドバッグに頭をつっこんで、ゴソゴソやってると、夢声さんが、白い化粧用のケープから顔だけ出した形で、トットに話しかけた。夢声さんの広いおでこに、メーキャップさんは、パタパタと、パフを叩《たた》いていた。
「いやあ、この間は、本当に、おかしな事が、あってね。�こんにゃく問答�の本番中のことなんだけどね」
�こんにゃく問答�というのは、夢声さんが、横丁の御隠居《ごいんきよ》さん、柳家金語楼《やなぎやきんごろう》さんが、八っつぁん、という設定の、連続のテレビ番組で、番組のタイトルが出るとき、本当に、グツグツ煮《に》えてる、こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]が画面に写るのも、変っていて、おかしかった。そして、御隠居さんと八っつぁんは、それぞれの役柄《やくがら》を演じながら、本当に世の中に起ってる、いろいろなことを、その日の新聞から選んで話し合う、という、とても、程度の高いものだった。落語の、あの少し怪《あや》し気な物知りの御隠居と、間が抜《ぬ》けた質問をする八っつぁんの会話のような対談が、即興《そつきよう》で、しかも、話題は、その日の新聞からナマ放送、というのだから、こういう、お二人じゃないと出来ないのだ、と、トットは尊敬して見ていた。その番組でのことを、夢声さんは、これから話して下さろう、としているのだった。
「……本番が始まって、少ししたとき、僕《ぼく》が、ふっ、と気がつくと、僕と金語楼氏が話してる座敷《ざしき》のセットから、ちょっと離《はな》れた、スタジオの壁《かべ》に掛《か》けてある僕のオーバーのポケットに、手を、つっこんでいる奴《やつ》がいるんだ。丁度、僕のところから、まる見えなんですがね。ところが、こっちは、ナマ放送中で、�泥棒《どろぼう》!�というわけには、いかない。僕も、いろいろと考えてね、�ちょっと便所に行って来る�といって、立ち上っても、それほど、不自然では、ないかも知れないけど、今まで、そんな事、したことないので、金語楼氏が心配するかも、知れない。よほどカメラさんに、�おい、お前さんの後ろに泥棒がいるよ�と教えようかとも思ったけど、一応、僕の家の座敷で、二人だけで話している、と、見てるほうでは思ってくれているのだろうから、それも、うまくない。だけど、見てると、僕の財布《さいふ》を、ポケットから、引っぱり出してるんだよ。誰かが気がつくかと思ったんだけど、みんな、こっちを見てるから、カメラの、すぐ後ろで仕事をしてる泥棒には気がつかない。いやあ、本当に、やられたね。そしてね、とうとう泥棒君は、財布を抜きとって、自分のポケットに入れると、僕のほうを見たんだよ。そのとき、僕たちの目が、パチッと、合ったんだ。なんと、君、そいつは、ニタ! と笑ったんだよ。僕のオーバーと、わかってたんだね。口惜《くや》しかったね、悠々《ゆうゆう》とスタジオを出て行くのに、手も足も出せないんだから。若い青年だったけどね。NHKの人じゃなかったね。いやあ、ニタ! と笑われたときは、�お見事!�といいたいくらいの気分だったかなあ。テレビって、残酷《ざんこく》ね。だから、ハンドバッグとか貴重品、離さないでいたほうが、いいからね」
トットは、「はい」といってから、(ナマ放送してるから、絶対に、つかまらないと、わかって、夢声さんのお財布を盗《と》るなんて、ひどい)と思った。そのとき、夢声さんのお化粧も、終った。夢声さんは、
「じゃね、失敬!」
と、いって、ニッコリ笑うと立ち上った。トットも立ち上って、お礼を言った。
猫背《ねこぜ》で、少し、ガニ股みたいな足つきで静かに、夢声さんは、化粧室を出て行った。その後姿を見ていて、トットは、
「アッ!」と、小さく叫《さけ》んでしまった。
それは、数ヶ月前のことだけど、トットは、盲腸《もうちよう》の疑いで、一日だけ病院に入った。手術はしないで済みそうだ、という事だったけど、なんだか、膿《うみ》を止める薬と、盲腸との闘《たたか》いが、体の中で、感じられる、深刻な夜だった。トットは、形容しがたい不快な気持で、ベッドに横になっていた。もとは、といえば、大喰《おおぐ》いしたのが、いけなかったらしいけど、とにかく、お腹《なか》は、そんなに痛くないにしても、熱は出るし、生まれて味わったことのない、いやーな感じで、いっぱいだった。おまけに、ちょっと目を閉じると、すぐ、くり返し、同じような光景が、目の前に現れるのだった。夢《ゆめ》なのか、実際なのか、はっきりしない、奇妙な感じだった。
それには、ソフト帽《ぼう》をかぶり、その下から、少しモシャモシャの長目の白髪を出し、グレーの夏服を着て、少し、ガニ股《また》のお爺《じい》さんが、必ず登場した。トットの前を、その人が歩いている。トットが後ろから歩いて行くと、お爺さんは、ふっ、と立ち止って、後ろを振《ふ》りむき、ニッコリする。トットは、ちっとも、こわくないお爺さんだけど、なんだか、イヤで、なるべく、目をつぶらないように努力した。だけど、どういうわけか、また、ふっ! と気がつくと、今度は、トットが大きな石垣《いしがき》のそばを歩いている。いきなり、その石垣の途中《とちゆう》に、小さな木の扉《とびら》のようなものが、あることに、トットは気づく。そーっと開けてみると、そこに、また、あのお爺さんがいて、ニッコリする。(なんで、あんな扉なんか開けちゃうんだろう)と後悔《こうかい》しながら、必死に目を開けて、起きていようとするのだけれど、またもや、ふっ! となって、今度は、井戸《いど》を見つける。なんとなく、上から、のぞいて見ると、井戸の底に、また、あのお爺さんがいて、ニッコリする。なにもかも明るく、ちっとも、こわい感じは、しなかった。こんな風に、必ずトットが、何かを、のぞき、のぞくと、そこに、あのお爺さんがいて、ニッコリ笑う、というくり返しが続いた。おしまいにトットは、お爺さんが、何となく、さそっているような風なので、一緒《いつしよ》に、ついて行っちゃおうかな、とも思った。でも、どこかに、断固として、ついて行っては、いけない! というものも、あった。遂《つい》にトットは、起きていることに、決めた。そうこうしているうちに、薬が効いたのか、運がよかったのか、次の日には、もう熱も下り、盲腸までに進まずに、トットは元気になって退院した。
それから少し経《た》った、ある晩のことだった。トット達《たち》は、ラジオのために徹夜《てつや》していた。休憩《きゆうけい》時間に、なんとなく、怪談《かいだん》めいた話になった。いつも、あまり自分のことを話さない、トット達の劇団の一期生の加藤道子さんが、静かに、
「私、死神って、見たことあるの」って、いった。みんなは、シーンとした。
加藤さんの話をまとめると、こんな様子だった。それは、まだ、加藤さんが、十代の時。妹さんが、疫痢《えきり》にかかって、入院した。そのとき、昼間だったそうだけど、なんとなく、道子さんが一人になって、看病することになってしまった。有名な俳優のお父さまの加藤精一さんも、お母さまも、ちょっと、いなかった。道子さんは、妹さんの足許《あしもと》の椅子《いす》にかけていた。突然《とつぜん》、ねむ気が来たような気がしたので、起きていなくちゃ、と思っていて、ふっ! と気がつくと、ベッドから一メートル半くらい離れたところに、お爺さんがいて、寝《ね》ていた妹さんを抱《だ》いている。びっくりした道子さんが、
「やめて!」
というと、次の瞬間《しゆんかん》、お爺さんは消えて、今度は、透《す》き通った、おじぞうさんが、妹さんを抱いている。(ああ、おじぞうさまならいいなあ)と、夢とも幻《まぼろし》ともつかない中で道子さんが、考えて、ベッドを見ると、妹さんが、急に苦しそうに息をして、あっ、という間に、亡《な》くなってしまった。そんなに悪いとは思ってなかった妹さんが、あっ! という間に、死んでしまった。道子さんは、
「昔のことだけど、はっきり憶えているのよ」
と、不思議な体験を、話して下さった。トットは、なんとなく、聞いた。
「その、お爺さんて、どんな感じの人でした?」
道子さんは、ちょっと考えてから、少し、いいよどみながら、いった。
「そう……強《し》いていえば、徳川夢声さんみたいな……」
「えー?!」
そのとき、トットは、全身、とり肌《はだ》が立つような気がした。というのも、トットの、あの工合《ぐあい》の悪いとき、何度も見たお爺さんが、なんとなく、徳川夢声さんていう人に、そっくりだ……と思っていたから。道子さんも、
「不思議ね、同じような人を見るなんて」
と、いった。その話を、いまトットは、化粧室を出る夢声さんを見て、思い出したのだった。夢声さんのニッコリ笑った顔は、どこかで見た事があったけど、後姿を見たのは今が、初めてだった。そして、その、後姿は、あの時のお爺さん、そのものだった。そういえば、夢声さんは、ドイツの怪奇映画「カリガリ博士」の説明がお得意だったそうだし、怪談ばなしも、ことの外、お上手で、人をこわがらせるのも、お好きのようだった、と、後《あと》でいろんな人から聞いた。そんなことから、工合の悪いトットの前に似たような人が現れたのかも知れないけど、トットは、そういう「カリガリ博士」とか、どれ一つとして見た事はなかった。
でも本当の夢声さんは、トットのような、かけ出しのハンドバッグを心配して下さるような親切な方《かた》だった。そして、トットは、話芸の神様から、たった一人で、こんな面白い�泥棒の話�を聞かせて頂いて、とっても、うれしかった。