テレビがカラーになった頃《ころ》、突然《とつぜん》のように、世の中は、「個性」の時代に入っていった。マスコミは、
「個性が重要な時代!」
と書きたて、トットは、新聞や雑誌に、毎日、追いかけられるようになった。「個性的な女優」ということで。でも、昨日まで、ディレクター達《たち》から、「みんなと同じに出来ませんか?」とか「あなたの個性が邪魔《じやま》なんだよね」といわれていたトットが、「さあ、あなたの個性は、なんですか?」と聞かれても、答えようが、なかった。「なんだか、変った子だね」と、あつかいに困っていたディレクターが、「個性があるから、なんとかなるだろう」と、仕事の伝票を、劇団に廻《まわ》して来た。NHKのディレクターの中でも有名な畑中庸生さんは、トットのことを、こんな風に、新聞に書いた。
「お世辞にも、美人とはいえないが、個性があり、クローズ・アップに耐《た》えられる顔……」
美人とは、自分でも毛頭、思ってはいないけど、何もかもが、「個性」という言葉で、片付けられてしまうことが、トットには、少し悲しかった。それでも、仕事は、毎日々々、増え続け、「あっ!」と、トットが気がついた時は、もう、寝《ね》る時間が、毎日、三時間くらいしか、ない、という事になっていた。テレビのレギュラーだけでも、週に六本あり、ラジオも、毎日のものを含《ふく》めて、三本くらい、あった。それでも、後《あと》から後から、仕事が入って来た。仕事を始めて間もないトットは、自分で、断わる、という事は出来なかった。劇団には、マネージャーなんて、いなかったから、すべて、自分で時間を調整し、交渉《こうしよう》し、整理していた。伝票が廻って来ると、その仕事が、「したいか、どうか?」ではなくて、単に、時間が空いてるか、どうか、だけで引き受けた。断われたのは、すでに同じ時間に、本番が入っちゃってて、どうしようもない時だけだった。
トットは、ほとんど寝てなくても、ちゃんとセリフを憶《おぼ》え、まじめにリハーサルに出て、本番も、なんとかボロを出さない点数を、とっていた。
そんな、ある日の夕方、テレビスタジオの本番中、突然、トットは、相手のセリフが、ほとんど聞こえないことに気がついた。その少し前から、なんだか耳の中が、ザワザワザワザワ、まるで、上野駅の雑踏《ざつとう》みたいだな、とは思っていたけど、その日は、そのほかに、「キーン」という高い音も入って、人の言ってることが聞こえない、と、わかった。(一体、これは、なんだろう?)いつも、いろんなことで、率直《そつちよく》なトットだけど、自分の体のことを、人にいう、というのは恥《はず》かしくて、いやだった。次の日も同じだった。なんだか、それに、目まいも、してるように感じた。トットは、前から健康診断して頂いてる病院の院長先生に電話した。そして、今の症状《しようじよう》を、説明した。年老《としと》った院長先生は、
「今、すぐ、おいで!」
と、いった。でも、トットは、病院に行く時間さえ、「都合つけられない」といった。先生は、いった。
「死ぬよ」
トットは、リハーサルのディレクターに、こわごわ打ち明けた。ディレクターは、時間をくれた。トットは感謝して、青山の病院に急いだ。先生は、トットの話を聞き、一寸《ちよつと》、診察しただけで、
「過労だな、すぐ、入院しなさい」
といった。トットは、唖然《あぜん》とした。入院するほど、自分が、どこか悪くなってる、なんて、思ってもいなかった。それに、一体、どうやって、全部のディレクターやプロデューサーに、断わったらいいのか、見当もつかなかった。トットは、途方《とほう》にくれた。(マネージャーがいれば、きっと、そういう人が、やってくれるのだろうけど)トットは、院長先生に、
「とにかく、NHKの方達に、おことわりして、すぐ入院しますから」
といって、走ってNHKに帰った。そして、一人ずつ、ディレクター達に、「過労で、入院しなくちゃいけないので、休ませて下さい」と頼《たの》みこんだ。ところが、見たところ、トットは、少しは青い顔をしてるかも知れないけど、歩いてるし、しゃべれるし……ということで、なかなか、みんなが、「うん」とは、いってくれなかった。みんな「他《ほか》のは降りても、これ、一本だけやってくれない?」といった。みんな、トットが、いなくなると困る、といった。トットは、
「もう、私がいないと、NHKは、つぶれちゃうんじゃないの?」と冗談《じようだん》めかして、いいながらも、悪い気は、しなかった。結局、ズルズルと、また、スタジオにもどって、本番を、やったりしていた。でも、耳鳴りは、もっと、ひどくなっていた。三日くらい経《た》った朝だった。トットは目を覚まして、何気なく足を見て、叫《さけ》びそうになった。膝《ひざ》から下に、いくつも、いくつも、真赤《まつか》な、花びらのようなものが、見えた。それは、蕁麻疹《じんましん》のように、ふくらんだりしていなかった。色も、ピンクとか、紫《むらさき》じゃなく、血、そのものの、真赤な、色だった。大きさは、花びらのようだったり、小さな花くらいだった。痛くも、かゆくもなく、鮮明《せんめい》な赤で、どちらかというと、奇麗《きれい》なくらいで、恐怖《きようふ》、そのものだった。
「死ぬよ」
と、先生が言ったことを思い出した。トットは、ママに足を見せた。ママも呆然《ぼうぜん》とするくらい、それは、恐《おそ》ろしい見ものだった。
トットは、すぐ入院した。いい按配《あんばい》に、その病院が、NHKに関係のある病院だったので、院長先生が、全部の番組に、断わって下さる、という事になった。トットは、自分が死ぬのかしら? と思った。トットが心配そうにしてると、院長先生は、トットの足を指して、「それは、そんなに心配することないよ。毛細血管が切れたんだから、二、三日も寝てれば、すぐ、なくなる」と、いった。過労から、赤血球が減って、そんな風になった、ということだった。いろいろ検査した結果、一ヶ月は入院、ということになった。
「寝てれば、なおるよ」
と、院長先生にいわれて、仕方なく、トットは、ただ、寝ることに、つとめた。院長先生が言った通り、本当に、足の赤いものは、三日で消えた。テレビを見てもいい、という、お許しが出たので、トットは、テレビを借りて、病室で見ることにした。自分のレギュラーの番組が、自分がいなくて、どうなるのかが、心配だった。時間が来て、トットが司会をしていた番組が、まず放送になった。ドキドキして見ていると、トットの知らない若い女の人が出て来て、こういった。
「みなさん、こんにちは! 今日から、私が当分、司会、やりますよ、どうぞ、よろしくね!」
そして、番組が始まった。たった、それだけだった。トットがいなくても、番組は、別に、困った風もなかった。みんな楽しそうに、写っていた。トットが、渥美清《あつみきよし》さんと、夫婦をしてるドラマがあった。これも、ナマ放送だから、一体、筋は、どうなるのかしら? と、トットは、気をもんでいた。放送が始まった。近所の人が、夫の渥美さんに聞いている。
「奥《おく》さん、どうしました?」
「実家に帰ってます」
これで終りだった。
トットの役に、実家が、あったかどうか疑問だったけど、そんなことは、問題にならないことだった。死にもの狂《ぐる》いで続けようとした仕事が、
「実家に帰ってます」
この、ひとこと。他《ほか》の番組も似たりよったりだった。そして、みんなは、どしどしと、トットなしで、進んでいた。トットは、この時、はじめて、
「テレビは、すべてが、使い捨て」
と、わかった。
たった一人、病室で、トットは、何も写っていないブラウン管を、いつまでも、見つめていた。