……以上が、「トットチャンネル」の本篇《ほんぺん》の後日談として、つけ加えたい部分でした。
永山弘さんを始め、いろいろ昔のことを思い出して、御協力下さった皆さま、ありがとうございました。特に、テレビの初期の頃の資料を探し出して下さった、NHKの愛宕山《あたごやま》の放送博物館の後藤義郎さんに厚くお礼を申し上げます。
最後に。これの連載中《れんさいちゆう》に悲しいことが、ありました。もう終りに近づいている頃、吉川義雄先生が、亡くなった事です。その一寸《ちよつと》前、私が、放送文化賞を頂いたとき、NHKホールに、わざわざ車椅子《くるまいす》で来て下さって「よかったね」と、珍《めず》らしく、にくまれ口じゃなく、おっしゃって下さり、そのすぐ後《あと》に、やさしい葉書を下さいました。それが最後でした。
それから、NHKのディレクターで、「夢《ゆめ》で逢いましょう」「ステージ101」「ビッグショウ」「この人を」そして「紅白歌合戦」と、私がNHKに入ってから、ずーっと仕事を一緒にして来た、末盛憲彦さんが、昨年の夏に、まだ五十四歳という若さで、突然《とつぜん》、亡くなった事です。この、「あとがき」の、森繁さんとの、テレビ二十五周年のときの演出も、末盛さんでした。私が「五十周年のときの演出も、末盛さん、やるのよ」、といったら、
「そんなに長くNHKにいられないよ」
と、笑いながら、いいました。どんなに偉くなっても、紅白歌合戦で、私が司会をするときは、そばについていてくれて、ストップ・ウオッチを持って、静かに、
「まだ五秒ありますから大丈夫《だいじようぶ》ですよ」とか、
「少し急いだほうが、いいみたいね」
とか、いってくれた末盛さん。どんなに安心だったか、わかりません。
そんな訳で、昨年の暮《くれ》、やはり紅白の司会でNHKホールに立った時、
「ああ、末盛さんが、もういない!」
と思ったら、あまりにも、NHKホールは悲しくて、賑《にぎ》やかな番組だけに、困りました。「戦友」というものが、どういうものか、本当には、私には、わからないけど、もしかすると、私と末盛さんは、テレビの中での、戦友だったかも知れない、と思うのです。もうじき、一周忌《いつしゆうき》です。
そして、私の父が、昨年の四月三十日に死にました。思ってもいないことでした。そのとき私は、仕事のため、新幹線に乗っていました。
「芸人は親の死に目に逢えない」
とは聞いていましたが、それが、自分の身に起るとは、思っていませんでした。私が支援《しえん》してる、ろう者の俳優さん達の狂言《きようげん》の初日で、私はプロデューサーでしたから、東京には帰れませんでした。次の朝、神戸のホテルのドアの下に配られた新聞の、死亡欄《しぼうらん》の、父の写真を見たとき、もう一度だけでいいから、生きてる父に逢いたい、と思いました。
丁度、「トットチャンネル」の締切《しめきり》が迫《せま》っていて、「ヤン坊《ぼう》 ニン坊 トン坊」の(㈵)を書きかけているときでした。
父の音楽を好きでいて下さった方に、あらためて、お礼を申し上げます。
こんな長い、あとがきを読んで頂くことに、なってしまいました。
終りに。テレビという新らしい仕事に、たずさわりながら、志を半ばにして亡くなった沢山《たくさん》の方達に、心からの感謝と、「お疲《つか》れさま」を、お伝えしたいと思います。そして、御家族の皆さんが、みんな元気で、お暮しでいらっしゃることを、祈《いの》っています。
一九八四年 七月