大井町線にのり、終点の大井町で乗りかえて、京浜東北《けいひんとうほく》線で新橋まで。ついこの間、交詢社《こうじゆんしや》に人形劇を見に行ったときは、のん気な気分で、この新橋駅で降りた。あれから、そんなに経《た》っていないのに、今日、トットは、重苦しい気分で、駅を出た。駅の人に聞いたら、NHKは銀座とは逆の、左のほうで、田村町という所にある、と教えてくれた。左のほうの駅前は、広場で、雨ざらしのベンチがあり、なんだか、人がいっぱいで、小さい飲み屋が並《なら》んでいた。トットは、なるべく、よそ見をしないように、人の間をすりぬけ、本屋さん、薬屋さん、お寿司屋《すしや》さんの店が続く通りを、どんどん歩いた。少し行くと、角に交番があったので、トットは念のために聞いた。若いおまわりさんは、目の前を指さした。
「あれ!」といって。
そこがNHKだった。トットは道路の反対側に立って観察した。
NHKは大通りに面していて、とても大きかった。コンクリートで四角くて、背が高く、どっしりとしていた。屋上に、塔《とう》だの、なんだかキラキラ光る丸いものとかを発見したとき、(やっぱり放送局という名前に合ってるところがある!)と、トットは思った。でも、これから、あの大きな建物の受付に行くのか、と思うと、少し心細い気がした。
そのときトットは、NHKの右のほうに、日比谷公会堂《ひびやこうかいどう》を見つけた。突然《とつぜん》、昔《むかし》、あそこのステージに出演したことを思い出した。まったく忘れていたことだった。
(そう、たしかに、出演した)
それは、「歯のいい子」ということで。
幼稚園《ようちえん》のとき、はっきり憶《おぼ》えてはいないけど、十人くらいステージに並び、誰《だれ》かの合図で、口を大きく横にあけて�歯�を見せたら、みんなが拍手《はくしゆ》したのだった。
少なくとも、歯はいいのだ、と、トットは気を強くし、道路を横切って、NHKの入口に立った。入口には守衛のおじさんがいて、トットが履歴書《りれきしよ》をさし出すと、親切に、受験者用の受付を教えてくれた。その受付は、臨時の事務所で、NHKの裏手の、カマボコ形の建物の一角にあった。トットが、ガラガラとすりガラスの戸を開けてのぞくと、大きな机のむこうに、何人か男の人がいた。トットの前には、すでに数人の若い女の人が立っていた。面接でもしているのかと思ったら、その女の人達《ひとたち》は、何やら書類みたいなものを受け取って、出て行った。いれ違《ちが》いにトットが履歴書をさし出すと、若い男の人が受け取り、目を通し、写真とトットを見くらべると、「はい」といって、安全ピンのついたカードをくれた。「五千六百五十五番」と数字が書いてあった。「受験番号です」と男の人がいった。トットの前に、すでに、五千六百人以上の人が来たことが、これでわかった。それから印刷物をくれた。それには、第一次の試験の日づけと、時間と、NHKで受験する部屋のナンバーなどが書いてあった。
トットは、想像もしていない、大規模なものに、応募《おうぼ》してしまったことを、はじめて知った。お礼をいい、ガラガラと音のする戸をしめて外に出ると、トットは深呼吸をした。面接でもあるのかと、そのために、あわてて着てきた一張羅《いつちようら》のよそゆきのオレンジ色のスカートが、いまとなると、なつかしく、親身に思えた。
「とにかく」と、トットは自分にいった。でも、そのあとの、きのきいた言葉は、見あたらなかった。トットはいった。
「泣くほどのことじゃなし!」でも、本当のところ、泣きたい気分だった。
あちこちに、電燈《でんとう》がつき始めた。トットは、駅にむかって走り始めた。
五千六百五十五番のカードが、バッグの中で、とびはねていた。