NHKの授業が九時に終ると、トット達《たち》は、家に帰るのに、新橋の駅まで歩いた。新橋の手前の志乃多寿司《しのだずし》の前に、毎晩、きれいな女の人が、ハンドバッグを持って、何人も立っていた。六時前にNHKに行く頃《ころ》は、ほとんどいないのに、帰る頃は、薄暗《うすぐら》いとこに、たいがい、十人くらい、いた。みんな背が高く、濃《こ》いお化粧《けしよう》をして、立ったり、ぶらぶら、行ったり来たりしていた。洋服も、たいがいスーツとかが多かったけど、中には、ワンピースにストールとか、カクテルドレス風の人もいた。ハイヒールのかかと[#「かかと」に傍点]の、細くて高い時代なので、歩くと、みんな、コツコツと音がした。
それは、三ヶ月の養成の、丁度、まん中頃のことだった。相変らずトットは、一張羅《いつちようら》のオレンジ色の落下傘《パラシユート》スカートに、白のブラウスだった。それに、いとこが作ってくれた、黒のビロードのチョッキを着ていた。そして、その晩、トットが、とても自慢《じまん》だったのは、スカートの中に、ゴワゴワした白の、ナイロンのペチコートを、はいていることだった。前から欲《ほ》しかったのが、昨日《きのう》、やっと、ママの知り合いから、手に入った。トットは、うれしかった。うんと広がったスカート。これは、トットが長いこと、夢《ゆめ》に見ていたものだった。体をゆすると、スカートもフワフワ揺《ゆ》れる。
授業が終って、いつものように、トット達は、志乃多寿司の前まで来た。勿論《もちろん》、いつものように、奇麗《きれい》な女の人達が、ハンドバッグを持って立っていた。そのとき偶然《ぐうぜん》、トットは、地下鉄の風の来る穴の上を、通りかかった。マリリン・モンローの、あの有名な、スカートをおさえるシーンの映画、「七年目の浮気《うわき》」は、まだ封切《ふうき》られていなかったけど、とにかく、丁度そのとき、地下鉄が下を通り、風が猛烈《もうれつ》に吹《ふ》き、トットのスカートが、ひろがった。パラシュート・スカート、というぐらいで、ほぼ、円形に裁《た》ってあったから、実に、うまく広がった。しかも、下の白のペチコートまで、ひろがるから、トットは夢中《むちゆう》になった。まわりにいるのは、女の人ばかり。しかも、夜だし。トットは、NHKの女友達に、
「見て? 見て?」
といっては、スカートが、まくれるのを喜び、時には、後のほうの、パンティーが見えるくらいになるのを、手でおさえては、大笑いした。女友達の中にも、フレアー・スカートをはいてる人がいたので、一列に並《なら》んでは、風が来ると、「キャー!!」といって、大さわぎをした。それにしても、凄《すご》い風が下から吹いて来る穴が、あるものだった。それと、新橋のあたりは、ひんぱんに地下鉄が通るらしく、たて続けにスカートが広がる時もあり、トット達は、飽《あ》きずに、やっていた。そのときだった。物凄い声が、聞こえた。
「なに、いつまでもやってんだよ! このガキ! 営業妨害だぞ! この野郎《やろう》!!」
一瞬《いつしゆん》、誰《だれ》が出した声だか、わからなかった。それは、恐《おそ》ろしく、低い、男の人の声だった。でも、男の人の姿は見えなかった。トット達は、スカートをおさえたまま、キョロキョロした。途端《とたん》、もう一度、聞こえた。
「早く、そこを、どきなよ!」
トットが声の出た方角を見ると、それは、そこに立ってる女の人の、一人だった。赤い口紅の唇《くちびる》から出た声だった。トットは、「キャ〜!!」というと、駈《か》け出した。他《ほか》の女の子も、駈け出した。なんだかわからないけど、こわかった。新橋の駅の明るいところまで来て、みんなで顔を見合せ、「あー、おどろいた」と口々に、いった。
次の日、五食で、「ゆうべ、どんなに、びっくりしたか」という話をトット達がしていると、映画女優からNHKを受けた、仲間の女の人が、こともなげに、いった。
「あら、あれ、オカマよ」
「オカマ?」
トット達の知らない言葉だった。今のように情報のない時代だったから、そういう人がいることを、知らなかった。姐《あね》ご肌《はだ》の、その女優さんは、いろいろ説明してくれた。
「女装《じよそう》して、あそこで、客が通るの、待ってんのよ。それなのに、あんた達が、本当の女の子で、それが、スカートまくって、お尻《しり》だしたりしてたら、そりゃ怒《おこ》るわよ。こわいわよ。本当は男なんだから……」
トット達は、驚《おどろ》くと同時に、興味を持った。
(男とは、絶対に見えない!)
その晩、トット達は、手をつなぐと、地下鉄の穴の上を通らないように注意しながら、あまりキョロキョロしないようにして、志乃多寿司の前まで来た。今日のトット達の目的は、
(いつも女だと思っていたけど、本当は男だとすると、どんなに上手に変装してるのか、よく見てみよう)ということだった。
いつものように、おねえさん達は、立っていた。トットは、昨日のことがあるので、少しこわいから、下をむき、上目使いに、観察しようとしていた。ところが、昨日、いないで、話だけトット達から聞いて、面白《おもしろ》そうだと思って一緒《いつしよ》について来た女の子は、無邪気《むじやき》そうに、ジロジロ見た。瞬間、昨日と同じ凄味のある声が、耳もとで聞こえた。
「なに、ジロジロ、見てんだよ!」
また「キャ〜!!」だった。
それ以来、トットは、志乃多寿司の手前で、右に曲って、違《ちが》う道から帰ることにした。そうして、また十日くらい経《た》った、ある晩、セリフの稽古《けいこ》が長びいたあとで、疲《つか》れ切ったトット達は、電車に乗る前に、何か、甘《あま》いものを喰《た》べて帰ることにした。例の、手前を右に曲って、すぐの左側に、おしる粉屋さんがあった。甘味屋さん的な装飾《そうしよく》の全くない、ガランとした小さな店だった。でも、みつ豆や、おしる粉、くず餅《もち》、ところてん、など、おいしくて、安いので、たまに、トット達は、寄ることがあった。その晩も、五、六人で、ガヤガヤ入って、あれこれ注文し、テーブルの上に、その、それぞれのものが運ばれてきた時だった。ガラリ、と戸を開けて、大きな女の人が二人、入って来た。トットには、一目で、それが、あの志乃多寿司の前の、こわいおねえさんだと、わかり、身がすくむような思いがした。運の悪いことに、おねえさん達は、隣《とな》りのテーブルに席をとった。みつ豆を手に、トットは、「どうしようかなあー」と考えた。(逃《に》げるわけにも、いかないし)むかい側にすわってる友達も、すでに察知したらしく、トットと同じように、頭をうなだれた形で、ところてんを、ズルズルと、口に押《お》しこんでいた。おねえさん二人は、クリームあん蜜《みつ》と、磯辺巻《いそべま》きを注文すると、ハンドバッグから煙草《たばこ》を出して、吸い始めた。伏《ふ》し目にしてるトットの目のはしに、おねえさんの、とんがった赤いハイヒールの先が、入ってきた。おねえさんが足を組んだので、トットのスカートのそばまで、そのハイヒールは来ているのだった。(とにかく、目を合わさないようにしよう)トットは必死に、下をむいたまま、みつ豆をたべた。そのとき、耳もとで、あの、太い声がした。
「ねえ、お嬢《じよう》さんたち、いま帰るの?」
びっくりして顔をあげたトットに、濃いお化粧の顔が笑った。
「いつもより、遅《おそ》いんじゃないの?」
もう一人のおねえさんがいった。トットは、あわてて、「ええ」といってから、いそいで、つけ足した。「今晩は!」
「今晩は!」と、おねえさん達は愛想よく答えた。そして、煙草の煙《けむり》を、トット達にかからないように、壁《かべ》のほうに、ふーっと、はき出した。
次の晩から、トット達は、もう廻《まわ》り道をしないで、前のように、志乃多寿司の道を通って、新橋の駅まで歩いた。前と違うことは、立ってるおねえさん達に、「今晩は!」と、声をかけることだった。おねえさん達も、
「今晩は!」とか、「いいわねえ、もう帰れて!」とかいった。ある晩など、トットは、おねえさん達に、「お先に!」といってしまい、あとから、(私も一緒に仕事をしてる人と、よその人に思われたわ、きっと)と、おかしく思ったりするくらい、親しくなった。
オカマ、という言葉を教えてくれた女優さんが、あるとき、思い出したようにいった。
「ねえ、あの晩、ほら、おしる粉屋さんで逢《あ》ったとき、あの二人、私達みんなが喰べてるとこ、じーっと見てたじゃない? きっと、本当の女が、どうやって喰べるのか、研究してたんだと思うわ」
トットは、(そうかも知れない)とも思った。でも、また、思いがけなく人の良さそうな表情の、あの、おねえさん達が、頬杖《ほおづえ》をついて、煙草の煙をはき出していた姿を思い出すと、女の動作の研究、というより、むしろ元気な女の子の若さを見て、自分たちの行き先きかなんかを、考えていたのじゃないか、と思えた。おしる粉屋さんで、トット達に話しかけたのも、あの晩、お客もつかまらず、もしかすると、寂《さび》しかったからなのかも知れない、と、トットは思った。