今日のテレビの本番は、思ってもいない結果に終った。でも、始めの予想では、うまく、いくはずだった。上野動物園のスター、チンパンジーの、スージーちゃんが、テレビ特別出演で、いろいろな彼女《かのじよ》の芸を披露《ひろう》することに、なっていた。それも、ただ、出て来て、何かを見せるのではなく、ドラマ形式になっていて、スージーちゃんは、ホテルに泊《とま》る、お金持のお客さんの役。そして、番組のフィナーレでは、ステージで、踊《おど》りも見せることになっていた。トットは、ホテルのボーイの役で、スージーちゃんの泊ってる部屋に、お食事を、おとどけする、という役目だった。それでも、部屋の中で、直接、スージーちゃんと、二人だけで向い合うことになるので、彼女に馴《な》れて頂くために、トットは、ディレクターに連れられて、上野動物園に出かけた。園長さんの部屋が、会見の場所だった。
小さいときから、動物が好きなトットは、チンパンジーとは、直接、逢《あ》った事は、なかったけど、とても、たのしみだった。こわいとか、気持わるい、とかいう気持は、なかった。他《ほか》にも、数人、俳優さんが行った。園長室で待っていると、スージーちゃんが、飼育係《しいくがか》りの男の人に手をひかれて、部屋に入って来た。ベージュ色の毛糸で編んだ、可愛《かわい》いワンピースを着ていた。ドアが開いて、スージーちゃんが、チラリ、と見えただけで、トットは、
(わあー、可愛い!)
と思った。本当に、三|歳《さい》くらいの子供のようだった。とても、お行儀《ぎようぎ》よく歩いて来た。スージーちゃんは、部屋に入ると、突然《とつぜん》、飼育の人の手を放し、手で漕《こ》ぐような恰好《かつこう》で、大急ぎで走って、トットの目の前まで来た。まわりにいた俳優さんの中には、「キャッ!!」と言って、飛びのいた人もいた。スージーちゃんは、まん丸い、まっ黒な目で、トットを見た。それは、人間の子供と、どこも違《ちが》わないように、トットには見えた。部屋の中には、トット以外にも、人が居るのに、いきなり、トットの目の前に、スージーちゃんが来たので、トットは、びっくりした。スージーちゃんは、小さな手を、トットのほうに、さし出した。黒いけれど、指の長い、品のいい手だった。トットは、なんだか、わからないけど、自分も手を出して、
「コンニチハ」
といった。次の瞬間《しゆんかん》、もう、スージーちゃんは、トットの膝《ひざ》の上に、チョコンと、すわった。みんなは、ドアから一歩、入ったか、入らないかで、もう、動物好きな人が、わかったのだと、スージーちゃんの勘《かん》に驚嘆《きようたん》した。トットも、一時は、びっくりしたけど、うれしかった。
「お母さんだと思ってるんじゃない?」
と、ディレクターが言ったので、みんなが、ドッと笑った。(これなら、大丈夫《だいじようぶ》!)みんなが安心した。
NHKでのリハーサルも順調で、とうとう、本番の日になった。スージーちゃんが、どういう芸を見せるのか、というと、ホテルの上等の部屋で、スージーちゃんが、まず、お化粧《けしよう》をする。手鏡を持って、口紅を塗《ぬ》り、白粉《おしろい》の丸い箱《はこ》の中からパフを出して、鼻の頭にパタパタとやって、次に櫛《くし》で頭をとかして、出来上り。その頃《ころ》、ボーイ役のトットが、トントンとドアをノックして、
「失礼いたします」
といって入って、バナナや、リンゴの、のっているお盆《ぼん》を、テーブルの上に置く。スージーちゃんは、そのバナナを一つ手にすると、ソファーに座《すわ》って、丁寧《ていねい》に皮をむいて喰《た》べ始める。そうすると、トットが、
「では、失礼いたします」
といって、部屋を出る。トットの役は、そこまでだった。そのあと、他の、男のボーイの役の人が、鍵穴《かぎあな》から中の様子をのぞいてみると、スージーちゃんも、むこうの鍵穴から、のぞいてるといった、いろいろのギャグがあった。そして、最後が、ステージでの踊り……ちょっと、�どじょうすくい�みたいのだけど、とにかく音楽に合わせて踊る……という、芸達者なチンパンジーでなければ出来ない、ストーリーだった。
カメラ・リハーサルも上々の出来だった。そして、ナマ本番になった。
小さな丸い帽子《ぼうし》をかぶって、ページ・ボーイ風の衣裳《いしよう》を着たトットは、バナナとリンゴをのせたお盆を持って、ドアの外に立ち、キューを待った。中では、スージーちゃんが、うまくお化粧してるはずだった。ところが、思ったより、キューが遅《おそ》い。トットは、あせった。
(大丈夫かしら? フロアー・ディレクターが、私にキューを出すこと、忘れてるんじゃないかしら?)でも、うっかり、中をのぞきに、まわりこんだとき、キューが来たら、間に合わない。やきもきしていると、何故《なぜ》か、フロアー・ディレクターが、床《ゆか》を、よつんばいに、はいずりながら、トットのところに来た。そして、ささやくように、いった。
「とにかく、なんとか、よろしくね!」
「え?!」
トットが、
「なんですか?」
と、いう暇《ひま》もなく、背中を押《お》された。仕方なく、ドアをノックして、中に入り、
「失礼いたし……」
と、いいかけたとき、目の前に、真白な、粉の固まりみたいなものが、飛んできた。一瞬、それが、何だか、トットには、わからなかった。でも、よく見ると、それは、白粉を、頭から、かぶった、スージーちゃんだった。F・Dさんが、
「なんとか、よろしく」
といったのは、このことだったのか、と、トットは、了解《りようかい》した。(それにしても、パフで、鼻の頭をパタパタはたくはずが、どうしたのかしら?)と思ってると、スージーちゃんは、その真白な、粉の固まりみたいな体で、また、鏡の前に飛んで行き、パフをつかむと、頭の天っぺん[#「頭の天っぺん」に傍点]に、更《さら》に、パタパタと、やった。それから、口紅を手にとると、口のところに持って行き、歯で噛《か》んで、口紅を、のみこんでしまった。それから、唖然《あぜん》として立ってるトットのところに、走って来た。それは、もう、初めて逢った日の、小さい女の子のようではなく、小さいモンスターのようだった。トットは、どうしたらいいか、わからないけど、逃《に》げるわけにも、いかないので、お盆をテーブルに置き、バナナを一本、手にとって、
「どうぞ、召《め》し上って下さいませ」
と、渡《わた》そうとした。ところが、それより早く、スージーちゃんは、バナナをトットの手から、ひったくると、皮もむかずに、バナナに、かみつくと、次に、ポーンと、遠くのほうに、放《ほう》り出した。トットは、必死で、スージーちゃんを、なだめに、かかった。
「なにか、ご機嫌《きげん》が、お悪いようで……」
出来るだけ、やさしい声で、いったけど、スージーちゃんには聞こえないらしく、次々とバナナや、リンゴを、放り投げ、最後には、お盆も、投げてしまった。
(どうしたらいいの?)
F・Dさんは、次々と、いろんなサインを出すけれど、どれとして、トットには、意味が、わかるものは、なかった。そのうち、スージーちゃんは、どんどん部屋のセットから出て、カメラ方向に歩き出した。トットは、少し追いかけたけど、本来なら、そこには、部屋の壁《かべ》が、あるはずなのだから、(どうしたものか?)と考えた。その、さなかに、トットは、とても、おかしいものを見た。それは、ドアの鍵穴から覗《のぞ》く、例のボーイの役の人が、腰《こし》をかがめ、鍵穴を覗いてる恰好《かつこう》で、キューを待っている姿だった。その俳優さんに、大岡先生は、前から�ビキニの灰�という渾名《あだな》をつけていた。それは、�どこに降るかわからない�という意味で、そのくらい、この俳優さんは、本番での、出入《ではい》りが、いい加減で、セリフも、よく、トチった。その人が、今日に限って、用意よく、鍵穴から、のぞいているから、トットは、(おかしい!)と思ったのだった。だって、部屋の中には、もう、誰《だれ》もいないのに……。
このあと、スージーちゃんは、すべてのギャグを、カットして、何かに使う予定で、スタジオの隅《すみ》に置いてあったザルに入った、南京豆《ナンキンまめ》を、スタジオの床に、まき散らした。カメラは、この南京豆に、ひっかかって、動きが、とれなくなった。F・Dさんは、南京豆の上で、すべって、ころんだ。スタジオの中は、もう、大混乱だった。そして、スージーちゃんは、フィナーレに、誰も思いつかないことを、考えた。それは、カメラの上に、よじのぼることだった。NHK一、といわれるカメラさんが、どんなに、グルグル廻《まわ》したり、移動させても、自分のカメラの上に、のっかってるスージーちゃんを撮《と》ることは、出来なかった。スージーちゃんが居ないので、ステージの上でウロウロしてる、司会者を撮っていたカメラが、大急行で、Uターンして、カメラの上の、スージーちゃんに、ピントを合わせた。
その途端《とたん》、粉まみれのスージーちゃんは、みんなを見廻すと、パチパチと、拍手《はくしゆ》をした。そして、放送は終った。世にも、滑稽《こつけい》で、皮肉なドラマが、終った。
トットには、そのとき、どうして、スージーちゃんが、こんなに荒《あ》れたか、その理由が、はっきり、わかっていた。
それは、休憩《きゆうけい》時間や、カメラ・リハーサルのとき、みんなが、スージーちゃんのスカートを、まくって、ちゃんと、毛糸で編んだピンクのパンツを、はいてるのが面白《おもしろ》い、といって、何度も何度も、見たからだった。
「さわらないで下さい」
と、飼育のかたも言い、スタッフも注意してたけど、いろいろの出演者や、技術の人達《ひとたち》が、可愛いからもあるけど、やっぱり、面白いので、かわるがわる、まくったのが、スージーちゃんの、気にさわり、興奮して、ああいう事になってしまったのだった。トットは、一度も、スージーちゃんに、さわらなかった。勿論《もちろん》、さわりたかったけど、自分だって、知らない人に、いじくり廻されたら、いやだから、きっと、チンパンジーだって、いやだろう、と思ったからだった。それと、トットの小学校の小林校長先生は、いつも、
「動物を、だましちゃ、いけないよ。性質が悪くなるからね」と、生徒に言っていた。だから、みんなが、スカートを、まくるたびに、トットは、
「よしたほうが、いいのに!」
と思ったけど、注意をするにしては、全部の人が、トットより、先輩《せんぱい》だった。チンパンジーの、かわりに、
「やめて下さい!」
と、大きい声でいえなかった自分を、トットは、口惜《くや》しい、と思った。もし、有名なら、いえるのに。有名とか、スターには、それまで、なりたい、とは思っていなかったけど、このときは、そうじゃないことを、本当に、残念に思った。スージーちゃんにも、申しわけない、と思った。
粉まみれのまま、スージーちゃんは、飼育の人に抱《だ》きかかえられ、トットに、
「さよなら」
も言わずに、帰ってしまった。
その日、トットは、ずーっと、悲しかった。