トットの今日したこと、といえば、結果的に考えてみて、あまり人に言えることでは、なかった。それにしても、トットがNHKの養成所に通っていた頃《ころ》から、気になっていることが、一つあった。それは、新橋駅の、NHKに行くほうの改札口《かいさつぐち》を出たところが、広場になってるんだけど、そこに、何やら大きなステージのような、家のような、そそり立つ木の壁《かべ》のような、不思議な建物が、あることだった。そして、いつも沢山《たくさん》の人が、そこに集っていた。最近では、その広場に、街頭テレビ、という、とても大きなテレビジョンが置かれたので、なおさら、人が集っていた。相変らず、テレビジョンのセットは、高くて手が出せないので、一般《いつぱん》大衆は、テレビを見たい時、こういう街頭テレビか、喫茶店《きつさてん》などで、見ていた。この街頭テレビは、NHKより半年あとに開局したNTVが、方々に置いたもの、という話だった。それにしても、前からある、あの不思議な建物は、一体なんだろう。
トットは、丁度、ラジオの一スタの前で、大岡先生に逢《あ》ったので、聞いてみることにした。逢った、といっても、もう、その日も、大岡先生とは、五度くらい、エレベーターの前や、トイレの前で逢っていた。そして、そのたびに大岡先生は、例の、靴《くつ》を少しひきずり、体を半身にした、横ばい風の奇妙《きみよう》な歩きかたで近よると、手の甲《こう》で口をかくすようにしながら、聞くのだった。
「トットさま、どちらへ?」
いま一スタから出て、トイレに行って帰って来たのだもの、答えは、「一スタ」に決まっていた。でも大岡先生は、何度でも、逢うたびに同じことを聞いた。トットは、段々と、それは、大岡先生が寂《さび》しいから聞いているのだ、とわかって来た。トット達《たち》、五期生の受持ちの先生、責任者としての役目は、養成が終り、トット達が仕事を始めると、ほとんど、なくなってしまった。だから、偶然《ぐうぜん》に逢うように見えるけど、それだって、大岡先生一流の、誰《だれ》も真似《まね》の出来ない独特の方法で、バッタリ逢うように、仕組んでいるのかも、知れなかった。それでいて、自分の聞きたいことだけ聞くと、本当に、あっ! という間に、姿を消してしまうのだった。大岡先生が、自分に近よって来る姿は、すぐ目に浮《う》かぶトットだけど、去って行く姿は、一度も見たことが無いように思えた。大岡先生は、自分の後姿《うしろすがた》を、絶対に見せない人だった。大岡老人と呼ばれても、聞こえないふり[#「ふり」に傍点]をする人だった。こういう大岡先生の、孤独《こどく》でもあり、また、トット達の受持ちになって、何回目かの青春を味わっているような、複雑な状態がわかってきたから、トットは、どんなに大岡先生に頻繁《ひんぱん》に逢い、同じことを質問されても、茶化したり、笑ったりすることは、しなかった。何度でも、
「一スタです」とか、「トイレです」
とか、答えていた。でも、今日は、大岡先生に聞くことがあったので、トットは、うれしかった。
「新橋の駅の前の広場の、人が沢山、集って来るところにある建物、あれ、なんですか?」
大岡先生の、丸い眼鏡の奥《おく》の目が、さも、大変なことを語るように、生き生きとした。
「トットさま、あれは、でございますね、競馬の馬券を売る所でございます。私は買いませんのですけれど、局のかたで、お買いになる方《かた》も、いらっしゃるようで、ございますよ」
(競馬か!)
トットは、物凄《ものすご》く、びっくりすると同時に、うれしくなった。早く聞いておけば、よかった。でも、広場の周りは、小さい飲み屋さんが、長屋のように並《なら》んでいて、焼酎《しようちゆう》や、カストリ焼酎とか言うものを飲ませるんだと、みんなが話していたので、トット達は、近よったことが、なかったのだった。
競馬とわかった二、三日後の今日、トットが、お昼頃、改札口を出ると、もう、人が沢山、集っていた。トットは、すっかり、うれしくなった。トットは、深呼吸をして、勇気を出すと、人々の間をかきわけて、建物の近くに寄ってみた。ほとんど男の人で一杯《いつぱい》だった。中には、どういうわけか、新聞紙を地面に敷《し》いて、寝《ね》てる男の人もいた。近づいてみると、本当に小さい窓が沢山あって、その窓には、2—3とか、2—4とか、看板が出ていた。そして、それぞれの窓口の中に、女の人の居るのが、見えた。トットは、
(やっぱり、馬券売場って、本当なんだ!)
と、感激《かんげき》した。それからトットは、人混《ひとご》みを抜《ぬ》けると、ステージの上に、そびえ立っている木の壁《かべ》の後ろのほうに、ぐるりと廻《まわ》ってみた。
馬を探すためだった。トットは、そこで競馬をやっているんだ! と、思ったから。
ところが、後ろに廻ってみると、そこは、ゴチャゴチャとした、小さいカウンターつきの、飲み屋さんと、道路があるだけで、競馬をやってる風には、見えなかった。それでもトットは、念のために、二度くらい、グルグルとまわりを廻ってみた。
どこにも馬は、いなかった。
すっかり、がっかりしたトットは、馬券売場の窓口の、空《す》いていそうな所に近よると、中のお姉さんに聞いた。
「すいませんけど、馬、どこにいるんですか?」
ソロバンかなんか、いじってたお姉さんは、顔を上げると、つっけんどんに、いった。
「なんですか?」
トットは、少し、どぎまぎしながら、聞いた。
「あの……馬……。ここで競馬、やってないんですか?」
お姉さんは、あきれたような顔に、なって、いった。
「ここに馬なんか、いませんよ」
トットは、まだ思い切れなくて、恐縮《きようしゆく》しながらも、追及《ついきゆう》した。
「じゃ、馬、どこにいるんですか?」
お姉さんが、トットのことを、どう思ったかは、わからないけど、もう、ソロバンのほうに、指も目も、行っていた。そして、口の中で、ブツブツと、
「中山に、居るんじゃない?……」
といって、もう、とりつく島のない、風情《ふぜい》だった。
「中山って、どこですか?」
なおも、しつっこくトットが聞くと、
「買わない人は、そこ、どいて!」
と、いった。トットは、もう、どくほか、なかった。
NHKで、この話をしたら、みんな、ドッ!! と、笑った。中には、かなり、トットのことを、馬鹿《ばか》だ! と思った人も、いたようだった。やさしい人は、
「君は、馬鹿、というよりは、空間的な感覚が、欠けてるんだよね……」
と、なぐさめてくれた。
でも、トットは、あの、そびえてるステージの上の壁の向う側には、広々とした空間があるもの、と、思いこんでいたのだった。そして、若々しく元気な馬が、何頭も、そこを走っているように思ったのだった。考えてみると、新橋の烏森《からすもり》に、馬が走ってるわけは、ないのに……。
「場外馬券」というシステムを、トットは知らなかったから、こんな風に考えてしまったのだった。
でも、真相がわかってからでも、トットは、なんだか、あの壁のむこうには、やっぱり馬が走っているように思えて、ならなかった。だから、雨の日なんか、馬が濡《ぬ》れてないか、と、ふと心配したりしてしまうのだった。