二
「まあ、まあ、そう短慮な真似をせんでも」
と、榊原は、鉄之丞を制して、
「幸い、石川主殿とは、面識もあるゆえ、拙者からも、示談の口添えいたそう。——その代りに、庄次郎へ、一札《いつさつ》書かせ、媒人《なこうど》と同道して、極力、先方へ謝《あやま》るにかぎる。お互いに、前途のある身だ」
矢立《やたて》を出した。
「庄次郎、詫状《わびじよう》を書け」
「何と……書きますか」
「一つ——」
と、健吉は考えて、
「お蔦と手を切ること。次に、以後必ず行状相改むべきこと。右二箇条、八幡《はちまん》御照覧、違背申すまじく候《そうろう》——でいい」
膝の上で、庄次郎は、その通りに懐紙へ書いた。
鉄之丞は、やっと、得心して、詫状を納めたが、
「しかし、半蔵殿の立腹は、わし以上。勘当は、まぬがれぬから、左様心得ろ」
と、云い渡した。
この際、父や弟に顔を見られるより、勘当の方が、庄次郎にはありがたかった。
御《お》徒士《か ち》町《まち》の叔父の家に、彼は、その日から窮屈な禁足を命ぜられた。六畳間の座敷牢《ろう》だ。読書以外、庭へ出るのも、許されない。
(お照は、死んだか、助かったろうか)
夢に見た妻は、死に装束《しようぞく》を着ていた。彼は妻の名を、紙位牌《かみいはい》にして、机の前に貼った。そして、水をあげていた。
お蔦の夢もみた。お喜代の夢も見た。三人の女が、交《かわ》る代《がわ》る昼間の空想や、夜の夢に立って、案外退屈は感じない。
しかし、辛《つら》いのは、絶対に隔離された酒の味と、女の肌だった。この二つは、知りだしてからまだ浅いだけに、若い肉体と精神を苦しめること甚だしい。と同時に、三人の女のうちで、もっともつよく、彼の頭にのぼるのは、お蔦だった。
不眠症になってきた。座敷牢の生活が、二月の余もつづいた。五月雨《さみだれ》になる。毎日じとじと雨の音ばかりを聞く。脂《あぶら》のぬけた蒼白《あおじろ》い顔にカビが生《は》えかかってきた。
「どうじゃ庄次郎、少しは、考えたか」
叔父は、二ヵ月目で、そこを開けた。懇々と、長談議である。意見されていると、涙が出た。
「やっと、八十三郎の取《と》り做《な》しで、勘当が許された。あの弟に対しても、恥ずかしいと思え」
そんな訳で、庄次郎は、小石川へ復帰がかなった。後で聞けば、榊原と叔父とは、近所交際《づきあ》いもしているし、囲碁仲間だとも分かって、お蔦との媾曳《あいびき》が、榊原から叔父の耳へ、叔父から父の半蔵へ、まるで筒抜けであったのを知り、庄次郎は、手ぬかりを後悔した。
それにまた、帰って見れば、妻の照子は、変りなく、家に働いていた。安心と、意外は、べつものだった。照子が、遺書を書いたのは事実らしいが、井戸へ身を投げた云々《うんぬん》は、鉄之丞が、懲《こ》らしめのため、あの場合の庄次郎を脅《おど》かした誇張に過ぎない。
肉親と肉親とは、十日も暮らすと、間の悪さも取れたが、照子とは、よけいに気まずい溝《みぞ》ができた。三ツ指と泣き顔に、庄次郎は、鬱々《くさくさ》して、
「お蔦は、どうしているか」
しきりと、会いたくなった。