暗くなってから、にわかに気温が昇ったためか、霧が立った。都会には珍しい濃霧で、黄色いフォグ・ライトを点した自動車が、街路をのろのろと走っていた。
少女は、青年と指先を絡み合せたまま、歩道を歩いていた。日暮どきから、二人は街を歩きまわっていた。歩いているあいだに、霧が立籠めたのだ。
歩きまわっているだけで、少女は愉しかった。まだ霧の立たない時刻に、一度だけ、青年は旅館の軒灯の前で立止ったが、少女が怪訝な顔で青年の顔を仰ぎ見たので、彼はすぐに歩き出した。
広い十字路で、二人は立止った。信号灯の赤が、にじんで朧ろに見える。眼の前の道路が水の拡がりのように見えた。
「川岸に立っているようだわ」
「渡し舟が要るね」
「あたし、渡れない」
少女は後退《しりご》みし、うしろに向き直った。歩道の傍に軒を並べている商店の灯が、黄色く連なっている。店構えは、朧ろげに見分けられた。果物屋の店先に並んでいる林檎の赤が、眼に映ってきた。そのとき、男が言った。
「咽喉が乾いた」
「林檎を齧りましょう」
「え」
「ここでまっていて」
少女は果物屋に歩み寄った。近付くにつれて、林檎の赤が光沢を帯びて眼に映ってきた。しかし、少女は緑色の林檎を探した。霧の中では、緑色の林檎を齧りたい、とおもったのだ。一つだけ買い、剥《む》き出しのままの林檎を掴んだ片腕を深く曲げた。胸の前で、緑色の果実を捧げ持つ恰好になって、振返った。明るい店先から、暗い街路に向き直ったためか、霧は厚ぼったい幕のように見え、男の姿は無かった。
一時間ほど前に男が立止ったのは、旅館の前だったことを、少女はにわかに鮮明に思い浮べた。置き去りにして、男は一人でどこかへ行ってしまった、と少女はおもった。
「洋一さん——」
絶叫して、霧の中に走り込んだ。
「葉子さん——」
声が聞え、青年の胸が、眼の前にあった。烈しくその胸に突当り、弾き返される少女の躯《からだ》を、青年は両腕で支えた。
少女の躯は、青年の両腕の輪の中に入り、唇が合った。少女にとって、生れてはじめての接吻だった。五本の指でしっかり掴んで、胸の前で支えている緑色の林檎が、二人の胸のあいだで堅くぐりぐり動いた。
ふたたび、二人は歩き出し、街の裏側の方へしぜんに足が向いた。
標識に似た白い板が、少女の眼の前で、斜めに傾いて立っていた。突然のように、その白い板は少女の前にあらわれ、その上に記された文字がはっきり眼に映った。
立入禁止。
低い柵があり、その向うに平坦なひろがりがあった。芝が植えられているようだ。巨きな樹木の黒い影が、空に向ってそそり立っていた。
「入ろうか」
青年が誘った。少女は頷いて、低い柵を跨《また》いだ。
少女は、平坦なひろがりの中の一つの点になった。それが、少女を頼りない気持にさせ、樹木の黒い影に向って歩いてみたが、その影は同じ大きさで、すこしも近付いてこない。少女は立止った。
「疲れたわ」
そのまま、芝生の上にうずくまった。青年も並んで腰をおろし、その肩が少女の躯を押した。少女は首をまわし、そこに青年のいるのを知った。頼りない気持が起り、地面にうずくまるまでの短かい時間、青年の存在が頭の中から消え去っていたことに、少女は気付いた。怪訝な気持になり、少女はたしかめるように、傍の躯に躯を凭《もた》せかけた。
電車の走ってゆく音が、遠くの方でひとしきり鳴り、やがて物音が聞えなくなった。しかし、静寂というのとは違う。半透明な静かさだ。霧が、単調なかすかな音を立てつづけているようにもおもえる。
「なにか聞えるの」
「なにも」
青年の手が、少女の膝頭に触れた。
「雨には音があるわね」
「地面に落ちるとき、音がするさ」
「それだけかしら。霧が流れるときは……」
「なにを考えているんだ」
青年の手が、膝頭の内側に移動しかかった。少女は咄嗟に堅く両脚を合せたが、その振舞を咎《とが》められでもしたように、すぐに脚の力を脱《ぬ》いた。
音が聞えてきた。短かい、しかし長く尾を曳く音が、単調に断続して鳴っている。厚い霧の幕の向うから、小さく聞えてくる。
こおーん、こおーん。
澄んだ、しかしうつろな音である。磨かれた木の板を、木槌で打つような音。いや、すこし違う。銭湯で、浴客たちが木の桶を使っている音に似ている。
少女は腿の内側に青年の掌を感じ、その音に心を委ねた。
音が消え、少女は青年の掌を、鋭く感じ取った。不意に、背後の闇のなかで、女の啜泣きの声が聞えた。その声はしばらくつづき、男の声が混った。
「もう、子供はつくらないことにしようね」
女の背を撫でている男の手が眼に浮ぶような、宥《なだ》める声音である。しかし、命令する口調も混っていた。
女の泣き声が高くなった。少女が躯を堅くしたとき、青年の手に烈しい力が籠った。