夕方、あと一時間も経てば「銀の鞍」のゆみ子になる筈の葉子は、鏡台に向って化粧していた。貧弱なアパートの、四畳半一間の部屋である。
ゆみ子になるためには、もうすこし口紅を濃くしなくてはいけないかしら、と彼女は鏡に顔を近寄せて、下唇を突出してみた。そのとき、入口の戸をノックする音がした。
気ぜわしい叩き方で、そこに一種の親しみがあった。新聞の集金人とかアパートの管理人の叩き方ではない。長い間、このような叩き方で彼女の部屋のドアがノックされたことはなかった。
入口の戸が開き、次の瞬間、軽い身のこなしで若い女が部屋の中に立っていた。「銀の鞍」のよう子である。寒い冬の日で、ミンクのストールがよう子の肩を覆っている。
よう子は立ったまま、部屋の中を見まわすと、かるく眉根を寄せた。
「前のゆみ子さんも、こんな部屋に住んでいたわ」
黄色く陽に焼けた畳に、じかに置いてある新式の電気湯沸器が、かえって部屋の貧しさを際立たせている。
「でも……」
「悪気で言ったのじゃなくってよ。身もちの良いのはよく分るわ。でも、そういうひとは、自分で自分を追い込んでしまうことが、よくあるのよ。それを心配したの。前のゆみ子さんがそうだった」
「…………」
「出掛けましょう。通りがかったので、誘いに寄ったのよ」
アパートの前に、クリーム色の自動車が駐めてあった。よう子がハンドルを握った。彼女は、派手な運転をした。追い抜かれたタクシーの若い運転手が腹を立てて、抜き返した。左へわざと切り込んでよう子の車の前に出ると、軽くブレーキを踏んで威嚇した。前の車の後部が眼の前に迫り、あわててブレーキを踏んだよう子の赤い唇から、
「畜生っ」
という言葉が出た。
「ねえ、前のゆみ子さんの話をして」
ゆみ子は、よう子の気持を逸らそうと試みたのだ。
「前のゆみ子、馬鹿な女よ。男に捨てられて、そのことばかり考えて……」
「純情だったのね」
「純情……。純情って、どんなことかよく分んないけど」
よう子は、前を向いたまま、唇を歪めた。
「とにかく、計算はしていたのよ。幸福になろうとする計算を。ただ、その計算の仕方が間違っていたんだわ。馬鹿な女なのよ」
赤信号で、交叉点に停った。ゆみ子が何気なく横を向くと、並んで停っているライトバンが眼にとまった。中年の男がハンドルを握っている。黒い縁の眼鏡をかけ、暢気な顔つきである。実直だが小心ではなさそうにみえる。その傍にはよく肥った三十くらいの女。一見して、その男の妻と分る。三歳くらいの男の子が座席に立ち、両方の掌を窓ガラスに当てて、外を見ている。女の手がその子の胴に巻きつき、支えている。うしろの座席には、男女とり混ぜ五人の子供がいる。八歳くらいから四歳くらいまでの子供たちで、左右うしろの窓ガラスにそれぞれ貼り付いて、街の景色を眺めている。
合計六人、年子《としご》とみえた。
よう子の肩をつついて、注意を促した。ゆみ子の示す方を見たよう子は、顔を歪めた。薄いすべすべした皮膚の額に、癇性な皺が寄った。その皺を無視して、ゆみ子が言った。
「あの子たち、虫籠に入っているコオロギみたいじゃなくって」
「窮屈そうだわね」
そういう意味で言ったのではない、とゆみ子はおもう。子供の頃、縁日へ行って竹の籠に虫を何匹も入れてもらう。眼の高さに持上げた籠を、街の光に透して見ながら、家へ持って帰る。良い声で鳴くだろうか、というかすかな不安がかえって愉しい。そのときの気持を、ゆみ子は思い出していた。
「でも、幸福そうだわ」
「だから計算が違うというのよ」
咎める、鋭い声である。
「そんなこと言っていると、前のゆみ子と同じになってしまうわ。あれは、別の世界のことよ」
すこし間を置いて、よう子は吐き出すように言った。
「よくもまあ、倦きずにたくさん産んだものね」