カウンターの隅に、電話機がある。眼鏡をかけた痩せた男が、先刻からながながと電話をかけていた。神経質そうな外貌に似合わず、受話器をもった腕の肘をカウンターの上につき、躯を斜めに倒した姿勢で、大きな声を送話口におくりこんでいる。
註文の品を取りにきたゆみ子の耳に、その男の声が聞えてきた。
「いいか、待っているんだぞ。可愛がってやるからな」
他の店の馴染の女に電話しているものとおもえた。得意気な、磊落《らいらく》を装った、周囲の耳を意識した声である。ゆみ子は、バーテンの木岡の顔に、眼を走らせた。木岡は二十七、八歳か。青白い顔に、唇だけ異様に赤いが、口を堅く結ぶと頬から顎にかけて精悍な線が浮ぶ。その木岡の顔は、まったくの無表情であった。
眼鏡の男は、ようやく電話を切ると、バーテンに大きく片手を挙げ、出口に向って歩き出した。四、五歩あるいたところで立止り、うしろに向くとゆっくりと大股で、木岡の方へ歩み寄った。大きく伸ばした右手の先を、握手を求める形にして、木岡の前に差し出した。遊び馴れた鷹揚さを衒《てら》っているが、衒いそこなって尊大な様子になっていた。そして、その喰い違いが、男にみじめな感じを与えている……、とゆみ子はその情景を眺めた。
もう一度、木岡の顔に、眼を向けた。彼はその男の掌を握っていたが、その手には力を籠めず、相変らずの無表情である。男に向けられた彼の眼は焦点を結ばず、男が手を離した瞬間、木岡の眼は斜めに壁のほうに動き、つめたい嘲る光を放った。
その光を見て、男は裁かれた、とゆみ子はおもった。男の計算違いが招いているみじめさにたいしての同情は、まったく無かった。
それでいいのだ、とゆみ子はむしろ爽快な気持で考えた。
新しい客が店に入ってくる度に、おもわずゆみ子は木岡の眼を窺った。その客についての判断の手がかりを探ろうとする気持なのだが、その眼はいつも無表情であった。顔は笑っても、眼だけは笑わない。無表情というのは、一つのはっきりした表情だということを、ゆみ子はいまさらのように感じた。
翌日の土曜日は、午後から雨になった。
開店の時刻を一時間過ぎても、客は一人も入ってこなかった。平素の半分ほどの人数しかいない女たちは、隅のテーブルに集って、所在なげに雑談をしている。マダムも、まだ姿を見せていない。
「どうせ、今夜は暇だわね」
「ゆみ子さん、どう、すこしは馴れて」
「…………」
「無理だわよ、まだ二日目だもの」
「あんた、この商売はじめてなの」
「ええ」
「だったら、覚えておくといいわ。土曜日って、暇なのよ。気のきいた客は、気のきいた女の子を連れて、週末旅行に出かけてしまうのよ」
「雨も降ってるし、陰気でくさくさするわ」
「そうだ、いいものがあるわ。きのう山《やま》ちゃんが置いていったテープでも聞こうかな」
るみという女が立上って、更衣室から小型のテープレコーダーを持ってきた。山ちゃんと呼ばれたのは、肥って陽気な中年の客である。るみはイヤホーンを耳に容れ、テープを回しはじめた。一瞬、緊張した表情が浮び、人目を意識して口もとだけ笑いで崩した。
「るみ、好きねえ」
そう言ったたえ子に、るみは黙ってもう一つのイヤホーンを渡した。たえ子はすぐに耳に容れたが、
「厭ねえ、こんなに騒ぐものかしら」
「山ちゃんの話では、アパートの隣の部屋のを、苦心して録音した、ということになっているけれど」
「怪しいものだわ。女ひとりだけで吹き込んでいるインチキなテープもあるという話だもの」
たえ子は耳からイヤホーンをはずし、
「はい、よし子さん」
と手渡そうとしたが、よし子は掌をうしろに隠して受取らない。
「どうしたの」
「厭だわ。厭なことを思い出してしまったわ」
よし子は女たちの顔を見まわし、カウンターの中の木岡を振返って、
「知っているのは、木岡さんとあたしだけね」
「そうなんだ。もう二年になるからな。よう子さんは今日休んでいるし。ゆみ子さん、きのうはママがいたから聞かなかったけれど……」
そこで言葉を切って、木岡はよし子と眼を合せた。
「なんでしょうか」
「その名前は、きみが考えたものなの」
「いいえ、ママが付けてくださったの」
「平仮名で、ゆみ子と書くわけだね」
「ええ、自分の好きな字を当て嵌めるように言ってくださったのですけど、仮名のままで……」
「ママは、忘れてしまったのかしら」
よし子が、木岡に言った。ゆみ子は、苛立ちを覚えた。
「なんのことでしょう」
「前に、ゆみ子というひとがいてね、自殺したんだ。二年前のことだが……」
「やはり雨降りで、暇な夜だったわ。ゆみちゃんがテープを聴いて、陽気に騒いでいたの。その夜中に、ガス管をくわえて死んでしまったのよ。木岡さん、あのときのテープ、覚えていて」
「あれは本ものだった。力の入った、いいものだった」
テープに聴き入っているようにみえたるみが、イヤホーンをはずし、
「なぜ、自殺したの」
「男に捨てられた、という話だったけど」
確信のない調子で、よし子が言った。
「そんなことで、いちいち死んでいたら、バーに勤めるような女のひとは一人もいなくなってしまうわ」
「そうね、みんな、なにかがあって、それで勤めるようになるのだものね」
「しかし、あのテープはいいものだった」
木岡が繰返して言い、
「なんというか、力が入っているくせに、やさしい気配なんだな。熱くなって、ゆっくり汗ばんでくる二つの躯が眼にみえるようでね。ああいうのを聴いたあとでは、ふっと死にたくたる気持も分る。ま、魔が差したんだな」
打切るように、木岡は言い、一瞬その眼が真剣な光を帯びた。しかし、すぐに元の皮肉な眼の色に戻った。客にたいするときには、木岡の眼は無表情、女たちの間では皮肉な色である。木岡は、揶揄する口調で、たえ子に言う。
「死ぬなら、ガスに限るよ」
「なぜ」
「小皺がみんな消えて、綺麗な顔になる。そうだったね、よし子さん」
「ええ……」
曖昧に、よし子は答えた。
「陰気な返事だなあ。それで、ゆみ子さん、名前はどうします。今なら、まだ変えられないものではない。ママには、よろしく言っておくよ。それとも、せめて適当な漢字を当て嵌めるか」
二年前、そのゆみ子という女は、男に捨てられ、そして、いのちと躯が光り耀いているようなテープを聴いた夜に、自殺したという。二年前の霧の夜のことを、ゆみ子は思い浮べた。あの頃は、自分のいのちもたしかに光り耀いていた。しかし今は……。
「わたし、このままで構いません」
と、ゆみ子は答えた。