テンプラという食物の名を聞くと、反射的におもい出す事柄がいくつかある。
昭和十九年の夏に、高校生(旧制)だった私に、召集令状がきた。
本籍が岡山だったので、その地の歩兵第八|聯隊《れんたい》に陸軍二等兵として入営するわけである。
友人たちのあいだでは、令状が届いたのは私が最初だったので、数人集まって送別会を開いてくれた。
物資の欠乏は、現在もアヤしい雲行きになっているが、当時とは比較にならない。
しかし、どういう時代にも、有るところには有るもので、そのうちの一人が自家製のテンプラを重箱に詰めて持ってきてくれた。
戦時中としては、ケンランゴウカな食物で、いまでもその按配が目に浮ぶ。
衣《ころも》の厚い狐色に揚がったテンプラで、あれはゴマ油だけを使うのでそういう色になる。
「当節の色の白いカルイ感じのテンプラなど、食えたものではない。テンプラはやっぱりキツネ色でずっしりしていなくては」
と、江戸っ子はしばしば口にするが、狐色のテンプラにはたとえてみれば下町の商家の頑固爺という風貌がある。
一方当節のテンプラは軽井沢でテニスをしていても似合うところがある。
しかし、そういう感じも、味についても所詮好みの問題で、とやかく言う気はない。
ただ、量がすくなくて満腹感が味わえるのはキツネ色のほうであることは、確かである。
窮乏の時代に都合のよいテンプラであった。
ところが、送られたほうの私が、四日間軍隊にいただけで帰ってきてしまった。甲種合格だったから、自分でも夢想もしないことが起ったわけだ。
私自身気付かなかったゼンソクを軍医が発見してくれたのである。
東京に戻ってきて、さっそく送別会をしてくれた友人に一人一人知らせた。
ある男は私が脱走してきたか、とおもったそうだ。またある男は、羨望《せんぼう》のあまり一晩眠れなかった、と告白した。
重箱をもってきてくれた男は、
「テンプラをソンした」
と叫び、さらに悪いことに、間もなく本人に召集令状がきてしまった。
このとき集まった連中の半分は、死んでしまった。テンプラの男は健在で、いまでもつき合いがあってときおり会うが、かならず一度は、
「あのときもっていったテンプラは……」
という話題が出る。
戦後の一時期、テンプラを食うとかならずゼンソクの発作を起していたことがある。理由はよく分からないが、あのときのタタリかもしれない。
才巻エビという小柄のものの場合、私は尻尾《しつぽ》にも塩をつけて、酒のサカナに食べてしまう。
エビの殻の腹にはモジャモジャしたところがあって、ふつうは捨ててしまうが、この部分を揚げて出してくれる店がある。そういう店はめったにないが、ある店では「蜘蛛手《くもで》」と呼び、ある店では「もさ」と言う。
「なぜ、もさ、というか」
と、たずねてみたが、その職人も分からなかった。
もさもさが詰まって、もさとなったのか。
この部分を揚げると、油がイタむのでつくるのを嫌う、という。