[書き下し文]公山不擾(こうざんふじょう)、費を以て畔(そむ)く。招く。子往かんと欲す。子路説ばず(よろこばず)して曰く、之く(ゆく)こと末き(なき)のみ。何ぞ必ずしも公山氏にこれ之かん。子曰く、夫れ我を招く者にして、豈(あに)徒(ただ)ならんや。如し我を用うる者あらば、吾はそれ東周を為さんか。
[口語訳]公山不擾が費を拠点として叛逆を企て、孔子を招いた。先生はこれに応じられようとした。子路はこのことに不満を覚えて言った。『費に行くことはないと思います。どうして(裏切り者の)公山氏のところなどに行くのですか?』。先生が言われた。『あの人が私を招いたのだ。何も理由がないということはないだろう。私の思想を採用してくれる人物がいれば、私はその地を東周にしたいと思っている。』。
[解説]魯公に反旗を翻した公山不擾から孔子が招かれたというのが歴史的事実であるか否かははっきりしないが、この章では、孔子が公山不擾の申し出に孔子が応諾しようとしたということになっている。直情径行の士である子路は孔子が公山氏のもとに赴くことに強く反対しているが、諸侯から自分の主張を受け容れてもらえなかった孔子は、自分の思想?理念を採用してくれる諸侯がいるのであれば、その国を理想の東周のような国にしたいと意気込んでいる。孔子が理想的な政治体制としたのは、歴史上に実在した東周の礼制(礼節?仁義?音楽=祭祀)に基づく統治であった。