「いいぞ、いいペースだ」
清瀬がつぶやく。ところが、王子の姿がなかなか見えない。常連校のなかには、十人が
ゴールし終えたところがどんどん出てきた。
「このままだとまずいですよ」
走は足踏みする。もう一度自分が走りたいぐらいだった。まだか、まだか。祈るような
気持ちで見つめる先、木立の陰から王子が姿を現した。
「ふらふらだな……」
清瀬は眉をひそめる。王子はすでに限界を超え、目の焦点が合っていなかった。
「王子さん、走って! ゴールはすぐです!」
走はせめて聴覚で導こうと、大声を出した。
「わかってる、ってば」
王子はこみあげる吐き気と戦いながら、もがくように前進していた。汗も流れつくし、
手の指がいやに冷たい。血はどこにいっちゃったんだ、と王子はぼんやり思った。たぶん
僕はいま、真っ青な顔をしてるんだろうな。
明らかに貧血だ。でもここで倒れるわけにはいかない。ゴールまで二十メートル。王子
が走りやめたら、十人しかいない寛政大は、予選会を失格になってしまう。自分のせいで
箱根がだめになったら、きっと蔵書は焚ふん書しよの憂き目に遭うだろう。それだけは避
けなければ。
王子は気力を振り絞った。振り絞ったとたん、胃も絞りあがって、とうとう耐え難い吐
き気に襲われた。
何百人もの人目も、もはや気にしていられない。王子は走りながら、思いきり嘔吐し
た。沿道の女性客が、「きゃっ」と悲鳴をあげたのが聞こえた。
「吐いてる場合か! 走れー!」
清瀬の怒声が響く。
鬼だよ、あんた。だから運動部は嫌いなんだ。王子は汚れた口もとを手でぬぐい、内心
で毒づいた。もちろん、足を止めるつもりはない。なんのために僕が、苦手な運動につき
あってきたと思う。アホみたいに、走る練習ばっかりしたと思う。
箱根駅伝に出るためだ。
脳みそ筋肉なあんたたちの夢を、一度ぐらいは一緒に見てもいいかと思ったから
だ……!
王子は百七十六位でゴールラインを越え、その場にくずおれて意識を失った。
竹青荘の面々は、芝生広場の陣地に倒れ伏していた。ゴール後に自分の腕時計でタイム
を確認する余裕があったものは、過半数を割った。ユキは、十人の合計タイムを明確に把
握する試みを諦めた。
集計やインカレポイントの計算に手間取るので、結果発表は十一時ごろになる。全出場
選手が走り終わってから、さらに一時間ほどは待つ必要があった。
「微妙なところだ」
清瀬は脛をアイシングしながら、冷静に計算した。「俺たちの順位を平均すると、たぶ
ん八十位台半ばだろう。ボーダーライン上だな」
「同じくボーダーライン上にいる大学の、インカレポイントによっては……」
ニコチャンはむずかしい顔で空をにらむ。
「予選落ちもありうるね」
とユキは言った。
そんなあ、と双子が嘆く。神童とムサは静かに、それぞれの先祖と氏神に祈っているよ
うだ。キングは芝生をむしった。王子はぴくりとも反応せず、うつぶせに横たわったまま
だ。取り囲む葉菜子も商店街の人々も、うかつな励ましもできず、ただただ結果を待つば
かりだ。
走はふと、清瀬の手もとを見た。クーラーボックスに入れて持ってきた氷が、ビニール
袋のなかで溶けかかっている。
「氷をもらってきます。あそこの売店で、わけてもらえるかもしれない」
重苦しい空気から逃れたくて、走は立ちあがった。ムサも同じ気持ちだったのだろう。
「私も行きます」
と言って、ついてきた。
芝生広場を横切り、赤い屋根の売店を目指す。予選通過を確信できた大学は、選手の表
情ですぐわかる。緊迫感を漂わせているのは、寛政のようにボーダーライン上の大学だ。
もっと下位であることが歴然としている大学は、総じて穏やかに結果発表を待っていた。
なかには、女子マネージャーが作った重箱の弁当を、仲良くつついているチームもある。
いろいろだな、と走は思った。このひとたちにとっては、予選会に出る、ということが
目標なんだ。最初から結果はわかりきっているから、走り終わったらピクニックと同じよ
うなイベントにして、楽しんでしまう。それが悪いわけではないけれど、俺たちとはちが
う。走はそう感じた。
俺は、予選会で終わるなんてごめんだ。もっと高みを見たい。もっと速く、強いチーム
になって、箱根駅伝で戦いたい。そのための練習をしてきたし、そのためならこれから
も、もっと練習する気持ちがある。
「どうなるでしょうね、走」
ムサが心配そうに話しかけてきた。
「行けますよ、箱根に」
走は請けあった。熱いマグマが、腹の底に湧いてくる。今日だって全員が全力で予選会
を走った。負けるわけがない。
力のこもった言葉に、ムサは目を見開いた。
「走はなんだか、強くなったようです」
「そんなことはないですよ」
走は首を振った。「俺たち、けっこう頑張って走ったじゃないですか。だから大丈夫だ
と思うだけで」
ムサはうなずいた。
「そうですね。私たちは箱根に行くのでした。みんなで」
ムサが言うと、おとぎ話の幸福な結末のようにも、信頼のおける予言のようにも聞こえ
るのだった。
走とムサが、「氷がほしい」と頼んだところ、売店の店員は快くわけてくれた。手ぶら
で来てしまったので、店員は紙コップに氷を入れる。「うっかりしていましたね」と話す
ムサの背後を、見物客の一団が通りかかった。
「また黒人選手がいる。ずりぃよなあ、留学生を入れるのは」
「あんなのがゴロゴロいたら、日本人選手はかないっこないもんな」
聞こえよがしな囁きに、ムサはサッと顔を強張らせ、走は振り返って抗議しようとし
た。
「いいんです、走」
ムサが押しとどめる。「今日だけでも、ああいう意見をずいぶん耳にしました」
「あんな勝手なこと、言わせておけないですよ!」
走はなおも、遠ざかっていく見物客を追おうとしたが、ムサに腕をつかまれた。