五、夏の雲（2）

「と、思ってたのに」

  ジョージはふくれっつらになった。「なんで現実はこヽうヽなわけ」

  バッティングセンターのオーナーから借り受けた別荘は、長く使われていなかったらし

く、半ば朽ち果てかけていた。

  清瀬の運転する白いバンに乗って、白樺湖畔の針葉樹林のなかにある別荘に到着した一

行は、室内の掃除で合宿一日目を終えた。床をぞうきんがけし、風呂を磨き、暖炉の煤す

すを払ったことで、ログハウスはようやく少し息を吹きかえしたようだ。

  木立のあいだに建つ別荘は、最初に見たときは熊が作った丸太のねぐらみたいだった。

手入れを終えたいまは、なんとか人間の住処に見える。走は安堵し、拾ってきた枝きれを

暖炉にくべた。

「ジョージの想像は、陳腐すぎるんだよ」

  と、埃で顔を真っ黒にしたジョータが言った。「俺は、こういうオチだと思ってた」

  昼に見たかぎりでは、白樺湖に避暑に来るのは、家族連れや老夫婦が多そうだ。白鳥

ボートは、湖畔の小さな遊園地から流れる音楽に合わせ、わびしくさざなみに揺れてい

た。

「涼しいのはいいことですが」

  ムサがＴシャツのうえにパーカーを羽織った。「日が暮れたら、寒いくらいですね」

  走が暖炉に火を入れると、なんとなくそのまわりにひとが集まった。窓の外は真っ暗

で、梢こずえのこすれる音しかしない。

「夕飯の下ごしらえは終わった。あとはルーを入れるだけだ」

  と、しばらく炎を眺めていた清瀬が言った。「そのまえに、ひとっ走りしてこよう」

「またカレーかよ！」

「やだ！  掃除で体力使いはたした！」

「こんなに暗いのに、車にはねられたらどうすんだ！」

  清瀬はもちろん、抗議を聞き入れない。追い立てられるようにシューズを履いて、全員

で未舗装の林道へ出た。

「まだ道もよくわかんねえのに」

  ニコチャンがぼりぼりと頭を いた。「湖はどっちだ」

「坂を下れば、いずれは湖畔に出るでしょう」

  ユキの先導のもと、縦一列になって走りはじめる。最後尾についた清瀬が、指示を出し

た。

「湖は一周、三・八キロだ。各自ジョッグで三周したら、別荘に戻って夕食」

「はーい」

  舗装された湖畔の道へ出ると、それぞれのペースで走りはじめる。土産物屋も小さな美

術館も、すでにシャッターを下ろしている。二つほどある大きなホテル以外は、明かりを

灯す建物もない。景色を楽しむこともなく、探るようにはじめてのルートを進む。

  走は清瀬と並んで、ゆるやかなカーブを描く夜の道を走った。岸に寄せる水の気配だけ

がたよりだ。

  いつもとちがう空気のなかで、いつもとちがう道を走ることに、走はあまり不安を感じ

なかった。距離感は体に叩きこまれている。一周が三・八キロとあらかじめ聞いておけば、

では自分がいまどのあたりを走っているのか、速度と体感によって自動的に把握すること

ができた。

  見知らぬ土地を走る、高揚と楽しさだけが走のなかに満ちる。

「監督は？」

  隣を走る清瀬に、走は尋ねた。「また碁会所ですか？」

「さあ。そのうち合流するだろう」

  清瀬はちょっと首をかしげる。「どうしてだか、大家さんは俺の運転する車に乗りたが

らないんだ」

  朝、竹青荘を出発するとき、大家は庭で一行を見送った。大家は、商店街からもらった

食料が、バンの後ろに積みこまれるのを満足げに眺めていたが、ついに自身は乗りこもう

としなかったのだ。

「ハイジさん、すごく運転がうまくなったのに」

  言ってから走は、「やべ、フォローになってない」と思った。しかし、清瀬がものすご

い勢いで運転技術を上達させているのは事実だった。白樺湖までの道中、車内で眠ってい

るものもいたぐらいだ。一回目の東体大記録会のころは、曲芸飛行をするスペースシャト

ルに乗ったみたいで、座席で硬直したり気絶しそうになったりすることはあっても、清瀬

の運転に身を委ねて眠るなど考えられなかった。

「俺は、なにごとに関しても習得が速いんだ」

  ハイジは淡々と言った。「凝り性だから、研究と練習を熱心にしてしまう」

  走は例の俗説を思い出し、「えー、じゃあ、あっちのほうも……」ともやもやしたが、

清瀬に尋ねる勇気はない。

「そうですか。そうですね」

  と、うなずいておいた。

  遅れて走るメンバーを追い越し、走と清瀬は一番に別荘に戻った。湖を三周するうち

に、高原のひんやりと湿っぽい夜気など気にならなくなる。体をほぐし、走は風呂に湯を

張った。清瀬は氷の入ったビニール袋を押し当て、右のふくらはぎをアイシングする。負

荷のかかった筋肉が、炎症を起こさないようにするためだ。

「調子、どうですか」

「問題ないよ」

  清瀬は微笑んだ。「先に風呂に入ってくれ」

  走が風呂から上がり、清瀬と交替して台所でカレーの鍋をかきまわしていると、ジョッ

グを終えたものたちが帰ってきた。汗に濡れたＴシャツを脱ぎ、どやどやと風呂場に入っ

ていく。

  シャワーを取りあう声や、音程のはずれた鼻歌が、台所まで響いた。清瀬は風呂から弾

きだされたらしい。まだ髪の毛を濡らしたままで、炊飯器の蓋を開ける。走は清瀬と協力

して、大きな一枚板のテーブルに夕飯を並べた。

  山盛りのカレーライスとサラダ。プロテインの粉末を混ぜた牛乳。デザートは桃だ。す

べて、商店街から寄せられた食材だった。

  風呂でさっぱりした面々が食卓につく。さて食べようとスプーンを持ったところで、

「ちょっと待て」

  と清瀬が言った。「人数がたりないようだが？」

  顔を見合わせる。ムサと神童がいなかった。

「おかしいですね。王子さんも帰ってきてるのに」

「僕が最後の一周を走ってるときには、まえにも後ろにも、もうだれもいなかったと思う

けど」

  と王子が首をかしげる。

「まさか、遭難じゃないだろなあ」