十、流星（3）

「いた」

  しかたないな、というように清瀬は認めた。「いつも診てもらってる先生だ。往診をお

願いしておいたんだ。痛み止めを打ってもらった」

「故障したっていう脚、治ってなかったんですか」

  王子が驚いて尋ねる。ジョージと葉菜子にいたっては、清瀬が故障を抱えていたことす

ら初耳だ。信じがたいという表情で、顔を見合わせている。

「どうするんですか？」

  走は声が震えないようにするのが精一杯だった。

「もちろん走る」

「そんな無茶をして平気なんですか」

「いま無茶をしないで、いつするんだ」

「もし……」

  走は言葉にするのをためらった。言葉にすることで現実になってしまうような気がし

て、こわかった。

「もし、今日無茶したせいで、これからずっと走れなくなったら、どうします」

  ジョージが息を飲み、王子がうつむくのがわかった。葉菜子は身じろぎもせず、走と清

瀬のやりとりの行方を見守る。

  走はじっと清瀬を見据え、返答を待った。

「とてもつらいだろうな」

  清瀬の声は静かだったので、そのことをもうずっと考えていたのだとわかった。「でも

後悔はしない」

  止められない、と走は思った。自分が清瀬の立場だったとしても、やはり走ることを選

ぶだろう。

  走は覚悟を決めた。だったら、俺にできるのはひとつだ。ハイジさんになるべく負担を

かけないようにすること。俺が九区で、できるだけタイムを稼げばいい。

  部屋を覆った沈黙を、清瀬の携帯の着信音が砕いた。清瀬は短い会話で電話を切った。

「神童からだ。芦ノ湖で最終エントリーが発表になった。六道大は予想どおり、九区に藤

岡を入れてきたそうだ」

  ジョージは期待と心配をにじませ、走に視線をやった。走は小さく、「よし」とつぶや

く。血が勢いよく体じゅうを流れ、喜びと闘争心となって心臓を鼓動させる。ついに同じ

場所で戦える日が来た。春の東体大記録会では、藤岡の背中を追うだけだった。あれから

自分がどれだけ速く強くなったのかを、ようやく試せるときが来たのだ。

「走、競せり負けるな」

  と清瀬は言った。走は決意をこめてうなずいた。

  時刻は午前七時をまわっていた。

  もうホテルを出なければならない。ここからは別行動だ。走とジョージは戸塚中継所

へ。清瀬と王子は鶴見中継所へ。葉菜子はゴール地点である大手町へ。

  王子が走に、

「ジョージがつきそいでいいの？  僕が行ってあげようか」

  と尋ねたが、走はやっぱり質問の意図がよくわからなかった。

「どうしてですか？  予定どおりでいいですよ」

  せっかくの気づかいを無にされても、王子は気を悪くするふうでもなく、「まったくも

う」とでも言いたそうに、笑って軽く首を振った。

  横浜駅の構内まで来たとき、清瀬は走に「さっきの話だが」と話しかけた。

「事態はきみが思うほど深刻じゃない。痛み止めが効いているし、再起不能になるような

ことはないよ」

「本当ですね？」

「俺が嘘をついたことあったか？」

「けっこうありました」

  清瀬は少しのあいだ空くうをにらみ、これまでの所業を思い起こしているようだった

が、

「大丈夫、今度は本当だ」

  と笑った。「鶴見できみの走りを見るのを、楽しみにしてる」

  清瀬になにかを伝えたい気がした。感謝と不安と決心を。だがそれは、どんなに言葉を

費やしても形になりきらない気持ちだったので、走はただ、

「一秒でも早く、襷を渡してみせますから」

  とだけ言った。

  一行はちょっと手をあげてひとときの別れの挨拶をし、それぞれの場所に向かうため

に、ホームへの階段を上った。

  午前八時。

  芦ノ湖から号砲とともに、まずは房総大の選手が走りだした。一分三十九秒後に、六道

大の選手がつづく。

  往路で芦ノ湖にゴールしたときのタイム差を取って、各大学の選手が再び襷をかけ、

次々に芦ノ湖を出発していく。今度は東京大手町を目指して、箱根駅伝の復路がはじまる

のだ。

  往路トップの房総大と、タイム差が十分以上ある大学は、房総大が復路のスタートを

切ってから十分後に一斉スタートとなる。今回の大会では、学連選抜チーム、ユーラシア

大、寛政大、東京学院大、新星大の五チームが一斉スタートを余儀なくされた。

  寛政大は、房総大とのタイム差が十一分五十三秒ある。十分後に一斉スタートといって

も、もちろん余った一分五十三秒が切り捨てられることはなく、総合タイムに自動的に加

算されていく。切り上げ一斉スタートのために、復路では選手が走っている見た目の順番

と、タイム上の順位がちがう、という事態が発生する。

  復路を走る、特に下位チームの選手は、目に映るレース展開だけではなく、ややこしい

タイム計算も頭に置いたうえで、実質的な順位を少しでも上げるべく、冷静に戦いに挑ま

なければならない。

  俺には向いてる、とユキは思う。ユキはだれかと競うのではなく、データをもとに傾向

と対策を練り、そのなかでどうやって自分が力を発揮して目標を達成するか、を考えるほ

うが好きだった。箱根駅伝の六区、山下りは、ユキの性格に合う。見た目の順位に惑わさ

れず、時間という見えない敵を相手に、技術を駆使して曲がりくねった坂道を駆け下りれ

ばいいのだから。

  神童は宣言どおり、出発までの時間、ずっとユキのそばに控えていた。ストレッチを手

伝ったり、寒さで硬くならないようにふくらはぎをマッサージしたり、さりげなく会話を

持ちかけてきたりと、なにくれとなく世話をしてくれる。おかげでユキは、心を落ち着か

せてレースに意識を集中することができた。

  いよいよ出発のときが近づき、ユキはベンチコートを脱いで神童に預けた。芦ノ湖の気

温はマイナス三度。まだ粉雪が舞っている。路面には雪が積もり、轍わだちが凍結してい

る。ユニフォームの下に長袖のＴシャツを着ていても、圧力となって押し寄せる寒さを防

ぎきれるものではない。風がないことだけが救いだ。