「携帯にメールしてみたら、『踊り子、まにあう』って返信が来た」
「まちがってキャバレーの支配人にメールしたんじゃねえか?」
とニコチャンは首をかしげ、
「特急踊り子号のことですよ、たぶん」
と神童は言った。
「走と王子さんは、携帯メールに慣れていませんから。そう打つのが精一杯だったんで
しょう」
ムサが優しく、この場にいない人間をフォローする。
「それであの、ジョージくんは?」
ニラを見るふりでうつむいた葉菜子の は、薄く染まっている。キングの存在は無視
か……、と全員が思った。
「キングさんとジョージは、ちょっと遅れるかも」
さりげなく「キングさん」を強調しつつ、ジョータは答えた。「交通規制で、戸塚駅ま
で行くのに手間取りそうだって連絡があった」
ユキがパソコンから顔を上げる。
「シミュレーションの結果が出た」
「どれどれ」
「どうなった?」
全員が腰を浮かし、パソコンを覗きこむ。ユキは厳かに述べた。
「ハイジがいつものペースで走った場合、東体大とのタイム差を覆すのはやや難しいとこ
ろだ、ということがわかった」
「そんなの、シミュレートするまでもなくわかってるよ!」
ジョータが再び叫んだ。「大事なのは、じゃあどうすればいいか、ってことでしょ」
「ハイジを信じて待てばいい」
ユキはそう言って、平然とノートパソコンを畳んだ。
「なんのための秘密兵器なの、それ! やっぱり意味ないじゃん!」
ジョータはみたび吼える。ニコチャンはシミュレーションソフトのことを早くも脳裏か
ら抹消し、ムサの持つ携帯テレビを眺めた。
「おい、東体大のペースが落ちてきてるぞ」
画面には、九キロ過ぎを走る選手が映っていた。たまに苦しげに脇腹を押さえている。
「大家さんに電話しろ」
清瀬は十キロ地点で、大家から東体大の情報を得た。京急大森海岸駅を過ぎたあたり
で、横浜大の選手と併走しているところだった。
東体大のペースが落ちたのは、こちらにとっては都合がいい。しかし問題もある。俺の
脚も痛みだしたってことだ。
右足が接地するたびに、鈍い痺しびれが脛を走るようになっていた。それでも清瀬は、
一キロ三分〇四秒ペースを崩さなかった。ガードをくぐり、今度は右手に電車の走る高架
を見ながら、なおも京浜急行の線路に沿って進む。
品川駅に至るまでの町並は、灰色に塗りつくされているようだった。重く垂れこめた雪
雲と、そびえるコンクリート製の高架のせいだろう。閉塞感を覚えるのは、ここを通りす
ぎるだけの清瀬の勝手な印象だ。目の端に映った小さな商店街は、正月の初売り目当ての
客で賑わっていた。東京湾に面しながらも高架に視界をさえぎられた町で、古くからの住
民たちは活気ある生活を営んでいるようだ。
清瀬は、故郷の島根の空を思った。東京に来て驚いたのは、晴れの日が多いな、という
ことだ。それなのに、夜に見える星が少ない。島根は曇りがちで、思い出す空といえば灰
色だが、夜になると雲はどこかに消え、満天の星が輝く。
このあたりの町の感じは、故郷に似ている。黙って灰色に閉じこめられたりせず、人々
が地に足をつけて暮らしているところが。
清瀬が通い、清瀬の父親が陸上部の監督をしていた高校は、県内一の陸上強豪校だっ
た。藤岡は県外から入学し、寮に入っていた。藤岡とジョッグをした道を、清瀬は思い出
す。夏の田んぼの、甘いようなにおい。夜に走っていると、無数の蛍が黄緑色の淡い光を
放った。「多すぎないか」と、藤岡が気持ち悪そうに言ったのを覚えている。
強いチームメイトと走れて、清瀬は幸せだった。父親のやりかたには不満もあったが、
藤岡にときになだめられ、ときに一緒に愚痴を言っていれば、忘れることができた。脚に
違和感を覚えるまでは。
少しハードに走りこむと、脛に痛みが生じるようになったのは、高校一年の秋のこと
だった。マッサージも針も試したが、痛みはなかなか去らず、やがて故障は慢性的なもの
になった。父親には黙って行った病院で、疲労骨折を起こしかけていると言われた。走る
のを一時やめるのが、なによりの治療法だと。
記録ものびているのに、走りやめることなどできない。清瀬は走りこみを徹底させる方
針に慣れていたから、練習量を減らしてはならないという強迫観念があった。監督でもあ
る父親に、弱みを見せられないという意地もあった。
脛をかばうように走ったせいか、今度は膝しつ蓋がい骨こつを はく離り骨折した。小
さな骨のかけらが関節を動かすさまたげになり、手術して取り除くことになった。高校二
年の夏休みは、ひたすらリハビリに費やした。走れるようになってからも、以前ほどス
ピードがのびていく感覚は味わえなかった。
終わった、と清瀬は思った。走るために生まれたと信じ、それにすべてをかけてきたの
に、清瀬の体は、清瀬の意志を裏切った。父親はあせるなと言ったが、深い絶望が清瀬の
胸のうちに淀んだ。陸上選手として致命的な故障を抱えてしまったのだと、だれよりも清
瀬が一番よくわかっていた。
高校生のなかではトップレベルのスピードがあったが、これ以上はのびない。のばそう
とすれば、右脚は二度と競技できない状態になるだろう。それでもかすかな希望にすがっ
て、練習をつづけた。
暗い箱のなかで生長をつづける、不気味な植物のようだ。清瀬は自分のことを、そう
思った。覆いにつっかえ、根枯れして朽ちるだけとわかっているのに、まだ貪欲に枝葉を
のばそうとする。肉体的な限界を突きつけられているのに、走らずにはいられない。
走りやめたら、死んでしまうと思った。精神が死に、やがて肉体も衰える。そんな自分
は許せなかった。無駄な行為だと頭のどこかでわかっていても、ぎりぎりまで競技の世界
で走りつづける。それしか、自分の心を生きのびさせる方法がなかった。
藤岡は清瀬を支えてくれた。体ができあがれば、故障も完全に治癒するかもしれない。
せっかく誘われたのだから、一緒に六道大で走ろうと言ってくれた。
清瀬は考えた。長距離という競技について、走るという行為について、考えつくした。
そのうえで、寛政大に進学することを選んだのだ。よりのびることが明白なものの集う場
所は、自分にはふさわしくないと思った。だが、走りつづけたいと願う、炎のような気持
ちを抑えることはできない。走りとは無縁の人々がいる場所で、もう一度自分に問い直す
ことが必要だ。
俺はなぜ走るのか、と。
寛政大は走るための環境が整っておらず、入学したことを何度も何度も後悔した。もう
走るのはやめようとも思った。だが実行には移せなかった。竹青荘で暮らすうちに、わ
かってきたからだ。