昔、男初冠(うひかうぶり)して、平城(なら)の京春日の里に、しるよしして、狩にいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みにけり。この男かいまみてけり。おもほえずふるさとにいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。男の着たりける狩衣(かりぎぬ)の裾(すそ)を切りて、歌を書きてやる。その男、しのぶ摺(ずり)の狩衣をなむ着たりける。
春日野の若紫のすり衣(ごろも)しのぶのみだれかぎり知られず
となむおひつきていひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけむ。
【現代語訳】
昔、ある男が元服して、奈良の都の春日の里に領地がある関係で、狩りに出かけた。その里に、たいそう優美な姉妹が住んでいた。男は、この女性たちを物のすき間から覗き見した。思いがけずも、荒れ果てた旧都に似つかわしくない美しいようすだったので、男の心は乱れた。男は、着ていた狩装束の裾を切って、それに歌を書いて贈った。男は、しのぶずりの狩衣を着ていた。
<春日野の若紫草で染めたすり衣の模様のように、私の忍ぶ恋心の乱れは、限りも知れないほどです。>
と、すぐに詠んで贈った。その場にかなった趣深いことと思ったからであろうか。